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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(41)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
三、興南監獄での伝道

▲金元弼先生

先生に侍るということ

 初期のころ、「このみ旨は、いつ成就しますか」と聞かれたことが幾度もあります。今のメンバーの中にも、「いつ、み旨が成りますか」と聞く人がいます。それは、このみ旨の道が正しいか、真理であるかどうかの問題になります。我々の責任分担をいかに成すか、果たすかによってその年月は短くなったり、延長されたりするのです。霊能者たちが3年で現れるといったのに、現れなかったとしても、先生が神の啓示どおりの先生であるならば、3年でできなければ7年、7年でできなければ10年、10年でできなければ一生涯かけても行くべきではないでしょうか。

 お父さんと子供がいて、「お前が中学校に入ったら自転車を買ってあげる」と約束したとします。ところが10年たっても買ってくれませんでした。おかしいと思っても、10年後の約束がそのとおりにならなかったとしても、お父さんはお父さんです。

 それと同じで、時が来れば成ると思います。しかし、準備した人は恵みを受けるけれども、準備していない者は、時が来ても恵みを受けられないのです。自分で準備した人には天国は来ますけれども、準備していない人は、天国が来ても、天国を迎えることができないのです。約束した時が来たから成るという考え方は間違っていることを分かってほしいのです。

 ですから、神の啓示があって、たとえ3年を過ぎて現れなかったとしても、常に神が啓示されたその中心に立って、信仰をもち続けなければいけなかったのです。

 イエス様がこの世に来られた時に神は、「あなたは33歳の時に、十字架にかけられるよ」と、そうおっしゃったでしょうか。そうは教えませんでした。栄光をもって、この世で地上天国を実現されることを約束していらっしゃいました。では、イエス様が十字架につけられなければならないということを知ったのは、いつでしょうか。その時にイエス様は、「ああ、神様の約束は違いました。あなたは、神様ではございません。だから私は、この道は行きません」と言われたのでしょうか。

 この霊能者たちは、自分を中心として考えたのです。神の啓示を、自分を中心として見つめ、神の目で見つめられなかったのでした。そして彼らは、たまにしか教会へ来なくなりました。

 しかしながら、このメンバーの中には、自分の家で信仰をもち続け、礼拝をして、先生が出てこられるのを待っている人もいました。あるいは、先生の所へ面会に行って、信仰を守っている食口たちもいました。ですから私たちも、何事をするにしても、それが神の喜ぶ道であるとするならば、たとえ1年のうちに成就しなくとも、それを行うべきなのです。

 先生のいらっしゃらない教会では、自然と集会や礼拝が行われなくなりました。しかし、メンバーの家に集まって礼拝をするようになりました。

 以前、皆様から「どうして霊能者は離れたのでしょうか」という質問がありましたので、その話をします。今は『原理講論』に体系化されていますが、当時、み言が体系化されていたら、そういった人たちは離れることはなかったでしょう。

 先生が入獄された時に、神からの啓示によって、自分で先生を助ける条件を立てる絶好の時であったのです。しかし、それを勝利できない人たちがいました。

 霊能者の集団(腹中教)の中心者が、長年の間、たくさんの啓示を細かいところまで受けて、メシヤを迎える準備をしていました。そういう霊能者であっても、最後の段階になって、牢屋で先生を迎える瞬間において、たった一つの失敗をしました。今まで苦労して築き上げてきたすべてのものを覆してしまったのでした。

 洗礼ヨハネのことを考えてみてください。長い時間をかけてメシヤのために準備した人です。それが、イエス様に仕えることができなくて、どうなりましたか。私たちには、常に謙遜な心が必要なのです。先生のその手紙を読んで、まず神に尋ねたならば、必ずその答えを得たことだろうと思います。

 イエス様は十字架を前にして、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイによる福音書2639節)と祈ったその祈りは、私たちにとって重要な教訓となると思います。イエス様御自身の意見があるはずがありません。イエス様は、神のみ意(こころ)はこうであると自分で考えようとする、その心までも否定したのです。イエス様が神のみ意を考える、そのみ意と神御自身の本来のみ意との間に、距離があるものだということを教えたのです。

 私たちは、「先生はこうである」と考えます。私は長年先生と共にいましたから、先生の御心情が分かりますけれども、私が思うのと先生御自身のみ意とは距離があります。先生が考えられるみ意とは、何でしょうか。そこまで考えてみないと、さっきの霊能者のような失敗を、私たちもしないとは限らないのです。こういう心構えを「謙遜」と言うのです。この点は、私がずーっと先生と共におりまして、非常に重要だと考えたポイントです。
 これは、先生に侍りながら感じたことです。

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 次回は、「興南監獄での食事」をお届けします。


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