https://www.kogensha.jp

信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(40)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
三、興南監獄での伝道

▲金元弼先生

獄中から食口のために祈られる

 平壌に残った人たちは、どうなったでしょうか。多くの食口がいましたが、青年は56人しかいませんでした。あとは全部、婦人や壮年の方々でした。先生が46年に平壌に来られて、足掛け3年になります。実際は18カ月ですが、足掛け3年です。

 最初に霊能者たちが入ってきて、「3年後には、先生はこの世の中に顕現する」と、何人もが同じことを予言しました。私も、3年後に先生は現れるのだと本当に信じていました。それは、天国が実現されることだと思っていましたから、メンバーは、その時になったら勉強も職業も何も必要ないと考えたのです。皆さんも、そう考えたことがあるでしょう。その時の食口たちは、全員そうした雰囲気だったので、いくら迫害があっても何も問題ではありませんでした。

 しかし、先生は我々に、そういう話をされたことはありませんでした。そういう啓示を、なぜ受けるのかをよく御存じだったからです。「3年後に顕現する」ということについて、先生のお考えと啓示を受けた人との考えには、大きな隔たりがあったのです。啓示を受けた人は、自分を中心として神の啓示を考えました。それは、「お前がメシヤだ、主である」と啓示を受けたとき、その人は「自分がメシヤだ」と考えるのと同じことです。

 再臨の主を迎える準備の集団(腹中〈ポㇰチュン〉教)についてお話ししましたが、幹部たちが自ら集まろうとしたのではないのですが、投獄というかたちで集められた時に、「お前たちを迎えるだろう」という啓示に対して、彼らは、メシヤが来て彼らを迎えると考えたのでした。本当にそう信じていたのです。ところが現実は、メシヤが来て彼らを迎えたのではなく、共産党の官憲が来て迎えたのでした。

 3年後には、反対のことが起こり、先生は牢屋に入られたのです。それで霊能者たちは、「3年後には現れると言ったのに、どうして牢屋に入るようになったんだろう。私の受けた啓示は、なぜ間違ったのだろうか」と天の教えを疑い始めたのでした。

 この疑いが発展していくと、2000年前のイエス様は、イエス様を捕まえようとした人の目をくらまして、危機から逃れることができたのに、先生は官憲が来たときに、あらかじめ知って、その目をくらまして逃れることをせず、なぜ連行されてしまったのだろうかという思いが募ってきました。そして、「私が受けた啓示が間違っているのだろうか。人々が、『お前の啓示はサタンから来たのだ』と言ったように、私が間違っていたのだろうか。本当に神が教えてくれたものであろうか」と、このように発展していくのです。

 霊能者は、神のみ言、啓示を受けたら、必ずそれを実体化し、体得する、それが非常に大切です。神霊は、真理の基盤の上に立たなければなりません。ところが、真理の基盤をもたないで、ただ神霊だけという人は、ちょうど目の見えない人が鈴の音を聞いて行くようなものです。鈴の音が止まったら、その時には方向が分からなくなるのです。

 啓示というのは、いつもいつも教えてくれるものではありません。メシヤに対する重要な啓示は、疑いをもった時に、「いや、メシヤだ」と教えるようなものではありません。一度教えてから、み言に従わないときには、反対の言葉を通じて教えるのであって、それを繰り返して教えるものではありません。

 ノアに神が教えたときにも、ノアに難しいことが起こったから、また教えてあげる、といったものではありませんでした。一度しかありませんでした。モーセにしても同じです。イスラエル民族をエジプトからカナンの地に導きなさいと教えているけれども、途中でこんなことが起こるだろう、そうしたらこういうふうにしなさいと、一つ一つ教えてはいません。

 私はあとになって、つくづく感じましたけれども、先生は牢屋の中で、食口たちがみんな疑いをもって、先生を裏切ることをよく御存じだったのです。しかし、先生は1日も欠かさず、1日に三度、私たちに対してお祈りを続けてくださいました。

 一人一人を思い描きながら、その人のためにお祈りされるのです。

 普通、「お前と私は、死んでも一緒に行こう」と約束します。しかし、そういう間柄の人であっても、ある時に裏切られたら、「お前が私を裏切ったのだから、私もお前を裏切る」というのが普通の人の対人関係です。しかし先生は、先生に誓った人が先生を裏切っても、その人を決して裏切ることはされなかったのです。

---

 次回は、「先生に侍るということ」をお届けします。


◆『信仰の伝統』を書籍でご覧になりたいかたはコチラ