信仰と「哲学」91
希望の哲学(5)
わたしの居場所は「父のうち」である

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 イエスの言葉、「わたしが父におり、父がわたし(のうち)におられる」(ヨハネによる福音書14章10節)について、従来のキリスト教の解釈では「イエスは神ご自身」であることを意味しているとしてきました。しかし、この言葉は、本来の人間と神との関わりの在り方を意味していると理解すべきなのです。

 「わたしが父におり、父がわたし(のうち)におられる」の意味について、さらに述べてみたいと思います。

 神は第一原因です。時間、空間の原因者でもあり、それ故に永遠(時間を超える)であり、無限(空間を超える)なのです。

 ここで重要なことは、第一原因である神は被造世界の「外」に存在することはあり得ないということです。なぜなら外に在るということは神と被造世界が隔たって存在している(両存在の間に隔たりという限界がある)ということであり、それは「無限ではない」ということになってしまうからです。

 文鮮明(ムン・ソンミョン)師は、神が無限であることについて、「神様は、いかなる形態ももっていらっしゃいません。大きいといえば、無限大です。小さいといえば、無限に小さい方です」(1970年10月13日)と述べています。

 この言葉は、神と被造世界との関係を前提に語られています。それは、心と体の関係であるということ、体にとって無形の心は「無限大であり無限小」であると表現することができるのです。

 私の居場所についてまとめてみましょう。
 第一原因が神なのです。よって、もともと人間をはじめとする森羅万象=被造世界は神のうちにあり、神は被造世界のうちにあるのです。神と被造世界は、心と体のように一つなのです。それ故に神は見えないのであり、神と被造世界とは、「互いにそのうちにある関係」なのです。すなわち、それは心と体の関係だということになります。

 『原理講論』には次のように記されています。
 「神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である」(47ページ)