信仰と「哲学」90
希望の哲学(4)
一つになっているものは見えない

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 居場所、足場の確定は他の存在との確かな関わり合いによって実現します。
 全ての「存在」(第一原因、すなわち実体である神以外の存在)は単独で存在することはなく、他者との関係性の中に存在しているのです。その関係性の中で最も根本的、根源的な関係性は神との関係性であることは論をまちません。

 ところで、その神は見えません。手で触れることもできません。その声を私の聴覚で捉えることもできません。「無形」なのです。
 それはなぜなのでしょうか。その「なぜ」を考えるために重要なことは、私の心もそうだということです。同じように見えません。手で触れることも聴覚で捉えることもできないのです。それでも心がないと言う人はいません。存在しないと言う人はいないのです。

 ではなぜ見えないのでしょうか。
 結論は一つになっているからなのです。完全に一つになっているものは見えないのです。私の心は私の体と一つであり、体のどこにでもあると言えるのです。しかし、心そのものを見ることはできないのです。

 そして、次のように表現できるでしょう。
 「私の体は私の心のうちにあり、私の心は私の体のうちにある」と。

 そしてそれは、体を構成しているそれぞれの部位についても言えることです。
 例えば、「私の手は私の心のうちにあり、私の心は私の手のうちにある」のです。

 このような表現を使ってきたのには理由があります。
 イエスの次のみ言を紹介したかったからです。

 ヨハネによる福音書14章7節から11節までの聖書の言葉です。

 「…もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。イエスは彼に言われた。「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、と言うのか。
 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。…」

 この聖句、特に「わたしが父におり、父がわたしのうちにおられる」とのイエスの言葉をどのように理解すべきなのでしょうか。
 これまでのキリスト教の解釈では、イエスは神ご自身であられるとの意味で説明されていたのですが、より根本的な理解が必要です。