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心情開拓
心霊を育てる生活原則(33)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

3 神に所有される者
(19701129日 水澤里〈ステンリ〉)

 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ人への手紙第1212節)

▲李耀翰先生

自分はだれのものか

 供え物の目的は、所有権を決定することです。摂理上、供え物を仲保として、堕落して中間位置にいる人物を本然の位置へもとかえし、復帰する目的で、祭物というささげ物を中心としたことを私たちは知っています。

 私たち堕落した者の立場は、その本然の位置から離れて、願わない悪主権に因縁が結ばれてしまいました。ですからその因縁を清算し、元の位置へ戻り、元の創造主に所有されなくてはならないのです。本心において、本然の位置に戻ろうとするのが私たちの本性であり、創造主の願いです。それで今まで仲保者を立てて、教育を受けてきたのです。

 だれしも、まず自分の存在位置が、本来願わないものであることを相当感じるのです。信仰している私たちは、み言(ことば)を中心として自分を見るときに、自分がみ言のとおりの存在でないということを明らかに感じます。み言の教育を受け、み言を中心として自分の本心を味わってみると、自分にはもう一つの部分があって、思うとおりにいかない面を発見するのです。だから、み言を受肉するということは、今までの自分を分別し始めるということなのです。

 み言を中心としての本心、み言を中心としての所有権、み言を中心としての自分の本心を所有される、だれかの言葉を中心とした自分になりたい、これが信仰だと思うのです。それでだんだん日を過ごしてみると、初めにみ言を中心として暮らしてみた経験から、やっぱり自分はこの主権に所有されなくてはならないと実感し、もっと深刻になっていくのが、信仰者のだんだんと体験することです。

 だんだん、自分は確かに神のものだということを確信して、それが一つの供え物、祭物精神というか、だんだんと自分は自分でないと感じるようになるのです。もちろん信仰する前も、自分に対しての悩み、自分が自分でないことも悟ったはずですが、み言を中心として自分を分別してみると、確かに自分の中で二人が闘っていることを発見するのです。

 それで、心も相当悩んで、ローマ人への手紙第722節に書いてあるとおり、相当苦しんだのです。苦しんだというのは、一つのみ言、絶対なるみ言によって、自分が幾分か絶対者に所有されたから、苦しみ始めるのです。この苦しみは、以前のものと内容が違うのです。信仰する前の、矛盾を感じながら悩んだ問題とは違うのです。み言を中心として自分が生き返った、本心をもっての闘いによる苦しみは、これは完全に分立するための苦しみです。

 それで、旧約時代には半分に裂いて、血を流さなければならなかったのです。半分に裂いて、死亡の血を捨てなくてはならないというのは、結局、私たちも自分を、み言を中心として分立して、今までの堕落の情を完全に流してしまうことです。つらさを味わう、何かの蕩減によって今までのみ言を知らなかった自分を分別するその苦しみは、み言を中心として自分を半分に裂いて、死亡の血を流してしまって、それから所有された人に再創造するために、なくてはならないことです。だから分立しないと、創造者の所有は始まらないのです。

 そのため、信仰は、自分が自分でないことを、まず深く確実に実感したあと、自分はだれのものだとはっきりすることです。そして、自分の存在位置を守るのが、信仰の始めです。結局、自分はだれのものかをはっきりし、だれを喜ばせるかということです。

 この祭物は、要求する人の願いを成してあげるものです。神様が私たちを救い、神様が子女を失い今までもち続けてきた恨みをほどくための祭物だ、という問題になるのです。だから相当、信仰者は大胆でなくてはならないのです。悟ったあとには、自分が絶対者の要求によって自分も絶対者のものだと感じるようになるのです。神も私たちを自分のものだと思って絶対視しているし、私たちも自分が神のものだと絶対視したあとに、存在基台が確立していくのです。定まっていくのです。この信仰が、最後まで続くと思うのです。

 結局、祭物精神は信仰動機であり、それは信仰が始まって以後にはどうでもいいというものではなく、また最後なのです。動機であり、結果なのです。これが神の祭物に対しての願い、神様の私たちに対しての願いなのです。この精神が、その信仰路程においてあいまいになると、大変なことが起こるのです。

 「お前は中間者であり、サタンと関係が結ばれている。それを清算して戻れ、絶対者のものになれ」というのが神の今までの教育です。

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 次回は、「神の悲しみをほどく」をお届けします。


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