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新・熱き祈祷のすすめ 43

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「新・熱き祈祷のすすめ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 祈りの必要性や祈りの種類、実践方法をまとめた祈祷の手引書です。

松本 雄司・著

(光言社・刊『新・熱き祈祷のすすめ』より)

第七章 深い祈り

2 真の父母のみ名によって神に祈る

 祈りの最初に、「天のお父様(=天の父母様)、天地人真(まこと)の父母様、興進(フンヂン)様……」といろいろ呼び掛ける人がいます。「いったいどこまで言ったらいいのでしょうか」という質問を受けたことがあります。その心情は理解できますから、「どこまで」とあえて規定するつもりはありません。ただ、祈りの原点を知っておくことが必要です。

 祈りは、真の父母、すなわちメシヤを通して、神に捧げるものです。ですから、原則的には「天のお父様」だけでいいのです。

 さらに、「お父様、お父様、お父様……」と言っているうちに、「どちらのお父様だったのだろうか」と分からなくなってしまう人もいます。もちろん真の父母は、天のお父様と一つになられた方であり、その代身として立っておられますから、心情的には私たちは神に対するように慕ってよいわけです。

 また、私たちは神の御苦労といっても、もう一つピンとこないのですが、文(ムン)先生の御苦労というと、興南(フンナム)収容所での様子やダンベリーの連邦刑務所での様子がサーッと浮かび、情感がわいてくることがあります。神を求める心情が薄くなってくると、文先生に対しては情がわいてくるし涙が出てくるのに、天地創造の神に対しては情感が薄くなってしまう場合がないとはいえません。

 問題は、文先生がなぜあんなに御苦労の生涯を送られるのか、ということです。それはどこまでも、目に見えざる神の痛みや悲しみや喜びの心情を私たちに伝えるためです。見えざる神の心情を、目に見えるがごとくに分からせるために、実体をもったお父様があのような苦労の道を行ってくださっているのです。そして、真の父母を通して神の心情を知るということが、最も重要な私たちの課題です。

 そういう意味において、真の父母を慕う心情での「お父様」と、天のお父様に対する「お父様」が、ある時には渾然(こんぜん)一体となってくるのです。それは自然なことであり、良いとか悪いとかの問題ではないと思います。ただ基本として知っておかなければならないのは、どこまでも真の父母のみ名によって、天地創造の唯一、絶対なる神に対して祈るということです。

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 次回は、「神の痛みを解放するために(1)」をお届けします。


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