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心情開拓
心霊を育てる生活原則(27)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

2 個人と教会の発展のために
(1970年6月26日)

▲李耀翰先生

学ぶ姿勢を失うな

 理解したもので指導しようとすると、自分は発展できないのです。指導者になって、だんだんと発展できなくなるのです。なぜかというと、自分が指導者だと思っているからです。伝道者だと思っているからです。「伝道者は人を指導するのだ」という立場に立つと、結局自分は、その型にはまってしまうのです。あらゆる人から学ぼうとすること、学ぼうとする態度がいつも大事です。

 指導者は、学ぼうとする欲望をもっていれば、その人に必要なものが分かるのです。「何を教えよう。どういう原理を教えよう」、こう考えると、自分というものが問題になるから、いくら信仰生活を何十年やっても、「新しい人にも学びたい」となるのです。

 「どういう経験も、私はもうした。もうああいう経験は済んだ」と。そういう過去のことによって、現在を貴重に思わないと、結局、固まった欠点のある人になるのです。だから年を取った人で、「現在」を、自分も過去に経験した「現在」と思う人は、そこが間違っているのです。「現在」というものは、きのうではないのです。だから、いくらきのう自分がこれを経験していても、きょうの経験は、全部性質が違うのです。

 イエス様は、自分を絶対視しながらも、人の事情に巻き込まれたのです。自分を絶対視しながらも、かわいそうな人には、主管され、共に泣いた、そういうところがあるのです。そこがイエス様の違うところです。

 私たちは、絶対視すると愛情が流れないのです。「原理」が思想に固まってしまうのです。「原理」を消化した自然人間(本然たる人間)になるようにと、人間を正常化する目的なのに、「原理」という理念にとらわれてしまっているのです。そうなると、結局一つの思想家になって、豊富な人間性をもった人間同士の関係が崩れ、孤立しやすいのです。

 私は「原理」を悟ったと、悟ったそのものに主管されて、結局、盲目になりやすい危険性が私たちにあるのです。そういう面もあるということを知り、私たちの霊的成長を中心として、考えてみなければならないのです。

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 次回は、「『原理』を貴重にする」をお届けします。


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