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心情開拓
心霊を育てる生活原則(26)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

2 個人と教会の発展のために
(1970年6月26日)

▲李耀翰先生

死んでも神のもの

 そのように教会長たちの信仰基台が発展していけば、自然に貴重な人物として組み立てられ、組織されるのです。私たちは、現在というものに歴史性と永遠性を知らず、打撃を受けるものだから、この時間を超越できないのです。私たちは、この時間圏内にいる者ではないのです。

 実際、考えてみてください。私たちは、現在にいる者ではないのです。未来にいる者です。未来の者であって、現在の者ではないのです。だから復帰というものは、歴史的に済んだものを解決しながら、永遠に生きていくのです。そこさえよく解決すれば、蕩減(とうげん)条件が立つのです。

 アダムの家庭において、カインがアベルのことで減少感を受けたのです。未来を見ずにおぼれてしまったのです。現在に、もぐってしまったのです。沈められてしまったのです。自分はそういう問題に触れる立場ではないのです。未来において、偉大になるからです。今アベルが祝福を受けたところで、それに関係する必要はなく、現在に主管される必要はありません。減少感を受けたそのものも、もはやその時間圏内に主管されています。時間圏内におぼれてしまっているのです。そこが一番問題です。

 私たちもどんな事件にぶつかっても、それが起きた理由を早く知って、これが来る以前の自分の方向を移動してはいけないのです。こういう事件、危機、危険がやって来る前の自分の態度が、未来性、希望をもった安全な態度だとしたら、それがぶつかってきても、自分はその姿勢に責任もたなくてはいけません。こういう事件が、環境が変更になっても、自分がその態度を守らなくてはならない責任がるのです。そこが自分のもつべき責任であって、その関係をどういうふうにするか、これをどういうふうにすればいいかという責任は、自分はもっていないのです。だけれども、すぐ私たちはもう、「この環境を、これを通して」というようになってしまうのです。だから、それに主管されてしまうのです。

 「これをどうしようか」と言わずに、その時、自分を捨てなくてはなりません。危険な時には、自分というものは捨てるのです。なぜかというと、神の立場だからです。神が、自分たちをそういう場面に指導してきたからです。イスラエル民族は、紅海の前に神が導いてきたのだから、これは困ったと思う必要はなかったのです。自分が歩いてきたのではないのだから。モーセとか、雲の柱、火の柱が導いてきたのだから、自分が心配する必要はなく、導いてきた神が心配すべきだったのです。

 「やあ、困った」、私たちの考えは、いつもそうです。いつもそれで失敗します。その時には黙っていればいいのです。「行くんだ」と、行くというその目的観だけもっていればいいのです。それだけで、黙っていればいいのです。そういう時に、忍耐が必要であって、どうしたら逃れられるか、どこへ逃げようか、どこへ避難するかという考えは必要ないのです。そこに、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」ということがあるのです。そういう時には、死のうとしていればいいのですが、生きようとするから間違えるのです。

 神の立場では、そういう神の祭物をみな結果主管しようと思って、危険な立場に立たせてきたのです。殺そうとするのは、結局神が主管しなければならないからです。殺そうとしても、じーっとしていれば主管するつもりなのです。神はイサクを殺そうとしました。でもイサクが黙っているから、神は主管しなくてはなりませんでした。それなのに、殺そうとしたら生きようとするので、神は主管できないのです。

 そういう場面場面が、私たちの生活に、波のごとくぶつかってくるのです。だからそういう時に、私たちは心情的に、自分というものにとらわれないで、全体を心配することができるかが問題なのです。私たちにぶつかってきたものは、自分だけのことではないのです。全体のことなのです。全体のことと思って、貴重に取り扱うのです。

 だれの立場かというと、神の摂理の立場で、いつも考えなくてはならないのです。神を忘れて考えてはいけません。自分というものもそうです。信仰とは、出発当時に、自分が神と共にあり、神のものだとした、それを継続することです。終わりまで神のものだと、死んでも私は神のものだとするのです。

 イエス様は、自分は神の息子だという信仰で一生涯を貫いたのです。どんな迫害があっても、自分は神の息子だというその信仰一点ばりで、立派な生涯になったのです。私たちはそうではないのです。そういうところで失敗が反復してきたので、そこからどういうふうに私たちは発展するかということです。

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 次回は、「学ぶ姿勢を失うな」をお届けします。


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