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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(19)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
一、平壌開拓の日々

▲金元弼先生

霊能者とキリスト教信者

 先生は体が回復すると、すぐに前と同じく朝早くからみ言を語られ、夜遅くまで語り続けられました。今までずーっと見てまいりますと、先生がいらっしゃる所には、常に大勢の食口たちが集まっているのです。それゆえに、先生お一人の時間というものは全くありません。リーダーになると、自分一人の時間が欲しくなる時がよくあると思います。しかし、先生にはそれがありませんでした。先生の生活は、今でもそうですが、ちょうどガラスの部屋の中で生活していらっしゃると考えれば、大変分かりやすいと思います。

 一方、私たちは壁を作って、その中で誰からも見られない、自分だけの時間をもちたいと思い、そういう環境が欲しいと考えます。しかし、先生が何時にお部屋に行かれ、何時に起きられたかということは、私たちはすべて見ることができるのです。

 47年には、約30人の食口が集まりました。先生を尋ねて集まってくる人たちは、長年信仰生活をしてきた人たちです。みんな、それぞれの教会の中心人物でした。彼らは、いろいろな奇跡や予言をしたり、人々の病気を治したりしたという経験をもっている霊能者でした。それゆえに、その人たちによって、教会の信者は伝道されたのです。ですから彼らは、その教会の中心的な幹部であり、柱のようになっていました。また、牧師のみ言を神のみ言のように大事にし、牧師に対して神に侍るように侍ってきたのです。その人たちに神は、メシヤの十字架は神の計画ではないと啓示で教えてくるのでした。牧師からイエス様の十字架は神の計画であったと教えられているのに、神の教えはそうではないのです。

 霊能者はこの神の啓示を非常に喜んで、牧師も必ず聞いてくれるだろうと思って書きつけて、話してあげました。ところが予想とは異なって、牧師は、「それは正しくない。聖書を見なさい」と言って、その霊能者に間違っていることを、聖書を通して話すのでした。また「あなたに教えを告げる者はサタンである」と教えるのでした。その時の霊能者の受けた衝撃は、耐え難いものでした。

 それで、家に帰って神にお祈りしました。その啓示は以前と変わらず、「これが正しい」と教えるのです。そこで霊能者は、啓示と牧師の教えとの間にはさまって、非常に悩みました。反対している牧師は、聖書を通して「何章にはこのように書かれている。このように教えている」と具体的な内容で示して、「間違っている」と言うのです。啓示では、正しいということは教えてくれますけれども、聖書を通して、ああであるからこうであるというようには教えてくれないのです。

 教会を離れては、行く所がありません。それで、心の悩みを抱えながら、既成教会についていっているのです。そこで、時には真理があると聞けば、このことが解決できるのではないかと思って訪ねてみたり、山へ行ってお祈りしてみたりするのですが、答える人はいませんでした。

 そのような中で、教会へ行っても、牧師に対する尊敬の気持ちをもつことはできませんでした。また、韓国のキリスト教会は、家庭復帰されていて、家族連れで参加します。ですから今お話しした霊能者は、教会を建てたのですが、生活の面でも家庭で非常に尊敬される位置にいました。家に病人が出ておなかが痛ければ、おばあさんであればおばあさんの所、お母さんであればお母さんの所、お父さんであればお父さんの所に来て、お祈りしてくれるのです。すると、すぐに治りました。困難なことが起こってそれを話すと、本当によくアドバイスしてくれました。ですから家庭の中で、生活の面でも、人格の面でも、大変仰がれる立場にいたのです。しかしながら、心の葛藤がありましたから、本当の喜びはありませんでした。

 そういう時に、南から来た若い先生が神霊と真理によって礼拝をするといううわさを聞いて、その人たちは目が覚めたように、先生の所に訪ねてきたのです。そういう人が先生のみ言を聞きました。十字架は既定事実ではないと、今私たちが『原理講論』を通して細かく教えられるように、教えられました。その人たちは、それこそ、「私が神から教えてもらった啓示は正しかったのだ」ということを体験するのでした。ほかにもいろいろな問題がみ言を聞くことで解決されると、霊能者たちは、そこから帰りたくなくなるのでした。そこで非常に喜び勇んで、牧師に話したのです。

 しかし、この人たちは頭では理解できたのですが、牧師が聖書を通して一つ一つ反論するのに対し、説得する力はもっていませんでした。自分よりよく聖書を読んでいる牧師に、よく説明できないのです。そうして傷ついて帰ってくるのでした。

 私たちのかつての姿を思い浮かべてみれば、よく理解できると思います。傷ついて帰ってきた人に、一人一人お話をしてあげるのでした。すべての人にそうしてあげるのです。ある人は神の啓示を受けて、「ある所に偉大な先生がいらっしゃるから、そこに行って尋ねなさい」と直接教えられて来た人もいました。また、5年前に、「再臨のメシヤが来る」と、その日付けなどいろいろと啓示を受け、自分の聖書に五年後の何月何日にメシヤを迎えるだろうと記して、その準備をしていた人もいました。

 この人がその啓示を受けた時、部屋でお祈りをしていたら、体がくっついて動きませんでした。朝、お祈りし始めたそのお母さんが、一日中出てこないので、子供が不思議に思って行ってみました。そして指を動かしても、びくともしません。起き上がらせようとするのですが、彼の若い力をもってしても、どうしてもそれができませんでした。この人は、それから五年後に、自分でも分からないうちに、何かを探したいといって家を出ていったのです。そして、その心の導きに従って歩いて、ある狭い道路に来た時に、美しい歌声が聞こえてきました。そして、その歌声が聞こえてくる所に入っていきました。そこは、先生がいらっしゃった教会であったのです。その時は、彼女に約束されていた、ちょうどその日でした。皆さんが祝祭日に着る礼服は、その人が神の啓示によってデザインしたものです。

 教会の中心的幹部たちが、先生の所にどんどん寄り集まってきましたが、それまで所属していた教会へ帰ろうとはしません。

 韓国の教会というのは、国家が助けているのではなく、教会員たちの献金によって支えられていました。ですから、牧師たちの生活も、彼らによって支えられていたのです。そういう人が先生の所に来て、帰らないので、教会は、大変揺れ動き始めたのでした。教会員たちは、そういう霊能者に影響されて、どんどん統一教会の活動をするので、今までいた教会へは行かなくなり、献金も、その人たちが来なくなると減ってしまいました。そうなると、教会を運営するのが困難になりました。そこで牧師たちは、いかにしてその食口を元に帰そうかと考えざるを得ませんでした。

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 次回は、「祈っている人への配慮/み言に酔った信徒」をお届けします。


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