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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(20)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
二、いつも弟子に関心をもたれる先生

▲金元弼先生

祈っている人への配慮

 礼拝のお祈りの時、あるいは準備をしている時には、常にほかの人のことを考えてほしいと思います。お祈りしているということは、神との対話の時間になるのです。お祈りしている時に、「バン」と音がすると、皆さんのお祈りはパッと切れ、分散されてしまいます。ですから、お祈りをしている人がいる時には、神を愛する、人を愛するという礼儀作法として、その人の邪魔にならないようにするのは、非常に大事なことだと思います。

 私がたまたま部屋でお祈りしていると、非常に大きな音を立てて、そのまま気にかけずに歩いていく人がいますけれども、皆さんはそういう人に教えてあげなければいけません。祈祷は神との対話の時間だということを皆さんはよく心得て、人の邪魔にならないような生活をすべきです。そのような生活をすること自体が、その人を愛し、神を愛することになるのです。

み言に酔った信徒

 日曜日には、サンデー・サービス(礼拝)があります。説教者に予定されたとき、どのように説教したらよいか分からないので、日曜日が来るのが非常に不安な時があります。聖書を中心として、どのように説教したらいいのか。「統一原理」の内容と聖書を、どのようにかみ合わせていったらいいのかと。

 先生はいつも、朝早く、み言を語られました。今は聖書をそんなに見られませんけれども、先生が韓国にいらっしゃった時に、サンデー・サービスの前には必ず聖書を読んで、聖書の内容を中心として、ずっとみ言を語ってくださいました。先生が説教していらっしゃると、霊能者たちは高い心霊の状態になりました。ある人にお祈りをさせると、代表して立ってお祈りするのですが、霊界に入ってしまうのです。その祈りが終わらないと、次の式順に進めません。非常に不思議なことですが、先生が「もうやめなさい」と言われると、霊界に入っていたその人は、自分の意識に返るのです。そういう場面を見ると、先生の世界がちょっと分かりました。

 礼拝が進行しているうちに、先生のみ言を聞いて、自分はどれくらい神に心配を掛けていたことかと悟り、悔い改めました。ですから説教の時にも、お祈りの時にも、涙を流して泣かない人はいないのです。中には恵みを受けて、喜んで涙を流す人もあれば、悔い改めの涙を流す人もいて、様々でした。神の愛に感謝して涙を流す人もいました。涙を流す内容は、それぞれ違いました。

 涙を流すにも、ただ涙を流すのではなく、胸をたたきながら泣く人もいました。ある人は体が震え、ある人は大きな声を出しました。あるおばあさんは、立って踊るのです。しかし、皆様が思うような、そういう踊りではありません。韓国の女の人は、人の前では踊ることも歌うこともありませんでした。ですからこれは、自分の意志ではなくて、霊の助けによって踊っていたのです。踊る人自身も、目を開けているのではなく、目をつぶって踊りました。ある人は、喜びがあふれて、歌を歌うにしても、手をたたきながら歌うのでした。酒に酔っぱらった人のことを考えてみれば、大変理解がしやすいだろうと思います。酒に酔ったら、黙っていません。歌を歌い、踊って喜びを発散させます。笑ったり泣いたり、話をどんどんする人もいますし、いろいろな人がいるのです。

 もともと、人間が神の愛に酔っぱらう世界が神の理想世界です。神の理想世界は、神の愛で酔っぱらう世界です。そのように、酔うという本性がありますから、神の愛に酔うことができないと、トランプでもいいし、何かで酔っぱらおうとするのです。お酒に酔っぱらっている様子と、神の愛に酔っている様子は、全く異なるものではないということをお話ししたかったのです。しかし、方向性が違います。

 初期の先生による礼拝の雰囲気は、本当に神の愛に酔っぱらったようなものでした。ですから騒がしくて、それを理解できない周りの住宅街の人たちは、教会の隙間からこれを見ていたのです。こういう状態で、夜になると夫や妻を近づけないということと連結して考えてみると、これは本当に淫乱なことがあるから、そうなのではないかと考えたのでした。

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 次回は、「迫害の中での牧会/牧師の反対を利用する共産党」をお届けします。


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