信仰と「哲学」81
コロナ禍世界の哲学(5)
まとめ~斎藤幸平氏の晩年マルクス論について

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 斎藤幸平氏によるマルクス再評価『人新世の「資本論」』(集英社新書)について、まとめます。

 既に述べたように、マルクスは資本主義から社会主義、共産主義への道は必然であり、それは生産力と生産関係との弁証法的関係という科学的法則によるものだと強弁していました。しかし、晩年のマルクスは、この「科学的見解」からの思想的大転換を図ったというのです。

 それを可能にしたのは1868年以降の自然科学研究と共同体研究だったというのですが、一言で言ってすでに指摘したように「無責任」と言わねばなりません。

▲カール・マルクス

 新たな見解は、資本主義的発展を最大限推し進めたその先に本来の共産主義が存在するのではなく、むしろ、ゲルマン民族のマルク共同体(ゲルマン社会および中世ドイツにおける共同用益地<森林、放牧地、沼沢などの用益>、管理を担当する組織)やロシアのミール(ロシア帝国にかつて存在した農村共同体)のうちに、西欧の近代社会が復帰させなければならない要素が存在していると判断したというのです。

 これら伝統に依拠する共同体では内部には強い社会的規制がかかっていて、例えば、マルク共同体では土地どころか、その生産物さえも外部と売買できなかったといいます。このような共同体では、同じような生産を伝統に基づいて繰り返しており、経済成長をしない循環型の定常型経済だったというのです。

 これらの共同体は、より長く働いたり生産力を上げたりできる場合にも、あえてそうしないことによって、権力関係が発生し、支配・従属関係へと転化することを防ごうとしていたと分析しています。

 このような共同体社会の定常性こそが、資本の力を打ち破って共産主義社会を打ち立てることさえも可能にすると、最晩年のマルクスは主張したとしています。

 斎藤氏は、「マルクス再解釈の鍵となる概念の一つが、<コモン>、あるいは<共>と呼ばれる考え」であると言います。

 「<コモン>とは社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す」ものであり、「アメリカ型新自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する『第三の道』を切り開く鍵」と言えるものだとしています。

 第三の道としての<コモン>は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す社会だとしています。
 ここで強調しているのは「自己抑制」です。<コモン>の実現にとって不可欠であるというのです。

 斎藤氏は、マルクスが「必然の国」と「自由の国」を分けていたと指摘します。
 「必然の国」とは生きていくのに必要とされるさまざまな生産・消費活動の領域であり、「自由の国」とは生存のために絶対的に必要ではなくとも、人間らしい活動を行うために求められる領域、例えば、芸術、文化、友情や愛情、そしてスポーツなどであり、この領域に広がっているのが「良い」自由であるというのです。

 この「自由の国」は、物質的欲求から自由になるところから始まるのであり、「自己抑制」が良い自由にとって必須条件となり、「この考え方の重要性は気候危機の時代にますます重要になっている」と斎藤氏は述べるのです。
 「自己抑制を自発的に選択すれば、それは資本主義に抗(あらが)う『革命的』な行為になる」と強調しています。

 これは唯物論ではありません。
 存在(物質的環境)が意識を規定する。故に資本主義体制を暴力的に添付する「革命」によって私的所有制度を廃棄し、社会的平等環境によって意識変革を実現する。その結果としての「自己抑制」意識の啓発だったはずなのです。

 斎藤氏の「晩年マルクス論」は従来の共産主義の自己批判であり「精神論」そのものです。著書のタイトルを『人新世の「資本論」』ではなく、「マルクスによるマルクス主義批判」とすべきことを提案したいと思います。