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レダ摂理 7

(『世界家庭』2016年12月号「レダ摂理(後)」より)

 『世界家庭』に掲載された飯野貞夫さんの証しを、毎週水曜日配信(予定)でお届けします。
 飯野絢子(あやこ)さんの証しに続き、絢子さんの夫であり、サウジアラビア国家メシヤとして活躍した飯野貞夫・天一国特別巡回師(777家庭)のレダでの歩みを紹介します。(一部、編集部が加筆・修正)

▲飯野貞夫さん・絢子さん夫妻(2011年、レダ)

「豚ランド」の餌付けがレダ訪問の目玉コースに

 私がレダで長期滞在をしていたとき、中田実所長(ハンガリー国家メシヤ、777家庭)は「人類の食糧問題を解決せよ」というみ言に基づいて、農業を中心として開拓し、発展させようと必死に努力していました。米やトウモロコシ、マンジョウカ(芋の一種)、その実から油を採るジャトロファの栽培など、さまざまな試みをしましたが、鳥害、虫害などで挫折してきました。失敗の連続でも勝利するまで闘い続けるという執念で、あらゆる努力が続けられていました。こうした試行錯誤の結果、これもみ言で指示されている現在のパクー養殖に至るのです。

 中田所長は、祖父が北海道入植で苦労したという開拓者の家系で、そのDNAを持っているだけあって、開拓に向かう信念には揺るぎないものがありました。また信念だけでなく、トラクターを駆使して整地したり、畑を耕したり、堤防の土手を造ったり、さまざまな機械類を器用に使いこなして大工作業をしたり、家畜の小屋造りをしたりと、休む暇なく働いていました。あの広い飛行機の滑走路の整備も中田所長の苦労のたまものです。

▲1000メートルの滑走路が整備されたレダの風景。手前の池はパクーの養殖場(2014年撮影)

 レダ地域の豚は、小がらながらも4か月で親になります。その成長の速さと旺盛な繁殖力に目をつけて、所長は「豚ランド」を発案、実行に移しました。自然放牧をしながら餌付けをして、今では1000頭近い豚を飼育するまでになりました。

 2012108日に文善進(ムン・ソンヂン)様・朴仁渉(パㇰ・インソプ)様ご夫妻が、真のお母様の願いを受けてレダ視察に来られました。とりわけ動物好きの善進様は、鐘を鳴らすと放し飼いにされている豚が一斉に餌を求めて走って来る姿に感動しておられました。

 後に韓国のMBCテレビ局が取材に来たときも、この光景が記者に感動を与えたようです。今やこの「豚ランド」での餌付けは、レダ(日陽園〈真のお父様が命名〉)来園者の目玉コースになっています。

 こうして善進様ご夫妻の真のお母様へのご報告によって、レダの評価は一段と高まるようになりました。

 さらに、201353日に、現職のフランコ大統領と国会議員をレダに迎えて、「パクー稚魚放流式典」が行われたのです。200353日、真の父母様にレダのご報告をした際に、「レダは勝利したね。でもこれで終わりではないよ。40年、400年かけても……果たせ」とのみ言を頂いてから、ちょうど10年後の同じ日でした。

▲フランコ大統領(当時)を迎えて行われたパクー稚魚放流式(201353日)。手前のサングラスの人がフランコ大統領

 これは環境保護、自然保護を願って、網を使っての乱獲で激減しているパクーという淡水魚をパラグアイ川に取り戻すことと、魚の養殖で人々に食糧供給の道をつくり、レダの自立につなげるという、壮大なプロジェクトです。

 それまでこの地方は、あまりに過疎化が進んだため、国から顧みられない地となっていました。その証拠に、大統領や国会議員はもちろん、レダのあるアルト・パラグアイ州の知事ですらも来たことがなかったのです。

 残念ながら私はこの式典には参加できなかったのですが、式典のようすを紹介します。

 式典の前日、準備のために6人の大統領府の役人が乗り込んできたそうです。飛行機で到着するや否や、「住人は何人くらいいるのか」と聞いてきました。「日本人が9人です」と答えると、聞き違いと思ったのか再度聞いてきました。向こうは少なくとも300人くらいの住人がいると思っていたらしく、本当に9人だと分かると、びっくりすると同時に拍子抜けしたようで、「何でそんな所に大統領が来るんだ」と怒り出しました。

 しかし、食堂でレダ開発のビデオを見せたところ、彼らは感動し、ガラッと態度が変わったのです。それでもプライドからか、「今回の式典は大統領府が主催である。したがって我々の指示に従ってもらう」と言ってきました。こちらが「南北米福地開発協会と共同主催ですね」と言うと、しかたなく承諾。実際、彼らは現場を知らないので、全てこちらのペースで進められました。結果的に式典は大成功で、大統領が誰よりも感動していたので、彼らも文句の言いようがなかったようです。

 式典は修練所の大講堂で行われました。偉いかたがたが壇上にたくさん並んだのに比べて、聴衆は30人ほどの現地労働者と数人の日本人、そして政府関係者と警備陣でした。レダは川の向こう岸がブラジルという国境地帯にありますから、建物の外には大統領を守るために動員された軍隊20人が機関銃を持って警備し、さらに地元の警察官(オリンポ市やバイアネグラ市)が十数人動員されたうえに、レダの常駐海軍、警察官らも加わり、辺りは物々しい雰囲気に包まれていました。

 式典では、大統領と中田所長の挨拶、アスンシオン大学のマグノ教授の放流式に至る経緯と稚魚放流の説明などがありました。続いて外に出て、岬の突端の放流現場に移動し、いよいよパクー稚魚5万匹の放流が行われました。

 全て滞りなく完了し、皆大満足でしたが、とりわけ食堂での昼食会では、歓談に花が咲きました。大統領もいろいろな人たちと気さくに写真を撮ったり、肩を組んで成功を祝い合ったりと、まるで兄弟同士のように上機嫌で交流していました。大統領府の側近たちも、「こんな自由な大統領の姿を見たことがない」と驚いていたほどです。

 この国会議員を伴った大統領のレダ訪問は大きなインパクトがあり、パラグアイ国内のテレビ局や新聞各社も来園し、大々的に報道されました。皆一様に、ムーン・グループの自然保護活動と地域社会貢献活動をたたえていました。

(続く)

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 次回は、「2、3か月ごとの訪問をやめ、長期滞在を決意」をお届けします。


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