信仰と「哲学」63
関係性の哲学~スピノザの「エチカ(倫理)」と自由

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 自由とは「~からの自由」あるいは「~への自由」です。いずれにしても制約のない状態をいいます。
 しかし考えてみれば、制約がないことなどあり得ないのではないかと思われます。

 例えば体を「自由に動かすことができる」などと言いますが、与えられた条件や制約を超えることはできないことに気付きます。

 人間は二本の足と二本の腕を持っています。それ以上でもそれ以下でもありません。既に与えられている条件であり、超えることができないのです。さらにその腕や足を自由に動かせるといっても「可動範囲」があります。骨格や筋肉、間接によって動かせる方向やスピードに制限があるのです。

 与えられた条件のもと、その条件に従って腕や足をうまく動かせること、私たちはそれらを自由に動かすことができると表現しているわけです。心技体のバランスが整ったときに「統一体」となり、最大の力を発揮することができるのです。

 与えられた条件のもとで、その条件に従って自分の力をうまく発揮できること、それが自由の状態だということができます。自由を実感するということであり、平和感や喜びが共存するのです。束縛からの解放とは異なる次元の自由の実感なのです。

 スピノザの哲学は自由であることを追求するものでした。
 自由について次のように述べています。

 「自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であるといわれる。これに反してある一定の様式において存在し、作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されるといわれる」(『エチカ』第一部定義7 岩波文庫 42ページ)

 要点は二つです。

 まず、「自己の本性の必然性」という条件・制約のもとで自分の力を発揮するのが自由になるということだということ。

 そして二つ目は自由の反対の概念が「強制」であるということです。
 強制とは、その人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押し付けられている状態だということができます。

 「自己の本性の必然性」との表現は、「神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことができないので、原理を離れた自由意志、あるいは、それに基づく自由行動はあり得ない」(『原理講論』第二章 堕落論125ページ)という意味なのです。