信仰と「哲学」64
関係性の哲学~神は自由に干渉されない

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 人間には自由があります。自由が与えられているのです。人間堕落の原因は与えられた自由のためであるという考え方があります。人間は神の「戒め」(取って食べるな)を信じることも不信することも、自由によって可能だったためであるというわけです。

 『原理講論』には、「神は天使と人間とを創造されるときに、彼らに自由を与えられた」とあり、「これを復帰するときにも、神は彼らに強制することはできない。それゆえに人間は、あくまでも自分の自由意志による責任分担としてみ言を探しだし、サタンを自然屈服させてこそ、創造本然の人間に復帰することができるのである」(117ページ)とあります。

 自由によって人間は堕落したというのは間違っています。
 与えられた自由は、神のみ言、すなわち原理自体の自律性と主管性によって心が動く内的必然性(「自己の本性の必然性」スピノザ)による自由です。
 この内的必然性による自由意志と自由行動によって私たちは自由であると感じることができるのです。これを「本心の自由」と言います。

 既述のように、西田幾多郎は『善の研究』で「元来我々の欲求は我々に与えられたものであって、自由にこれを生ずることはできない。ただ或る与えられた最深の動機に従うて働いた時には、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである」と述べていることと一致します。

 自由の反対は強制です。
 結論から言えば、人間は「強制」によって堕落したのです。
 『原理講論』には、人間は「本心の自由」が拘束されることによって堕落したと述べています。

 人間が神の戒めを破るという行為は、いかなる存在によっても強制されない自らの意思と行動によるものと表面的には見えます。
 自由とは「自らに由る」ということですが、問題は人間の「自らに由る」意志と行動の「原因が一体何か」ということなのです。

 神、すなわち原理に従って責任を全うし、神を喜ばせる実績を持つときが真の自由です。「自由であったと感ぜられる」(西田)状態です。

 一方、人間の堕落は「自らに由る」意志と行動の原因が、天使長ルーシェルの動機にあり、生じた非原理的愛によって「本心の自由」が拘束された状態(強制された状態)での発露だったのです。そこにあるのは「自由であったと感ぜられる」状態ではなく、不安と恐怖心だったのです。

 神は人間の自由には干渉されません。強制できないのです。
 神の戒めはあくまでも「本心の自由」を守るための警告であって本心の自由に対する干渉、強制ではないのです。