信仰と「哲学」62
関係性の哲学~自由の真意義(西田)とは

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 自由とは他者との関わりを前提とした概念です。
 一般的には解放としての自由、「~からの自由」を想起します。組織からの自由、Aさんからの自由、「しがらみ」からの自由、悪い習慣・慣習からの自由などです。

 しかし、「解放」されたからといって「自由を実感できる」わけでもないのです。孤独と何をなすべきかが分からないという不安が新たな強迫観念を生み、別次元の拘束(恐怖)が始まるからです。その結果、『自由からの逃走』(東京創元社 エーリッヒ・フロム)となりかねません。

 フロムは次のように述べています。

 「人間は孤立することをもっとも怖れている。人間は、(意識の上では)自らの意思で動いていると信じ、自らの意思で『積極的な自由』を求めているものと信じている。しかし人間は、自由になればなるほど、心の底では耐えがたい『孤独感』や『無力感』に脅かされることになる。
 そして孤立することの絶望的な恐怖から逃れるため、退行的な逃避のメカニズムが働き、『積極的な自由』を求めることより、自由から逃れることを人間は選択するのである―」

 西田幾多郎は『善の研究』(岩波書店)で、自由について以下のように記しています。

 「我々は普通に意思は自由であるといって居る。しかしいわゆる自由とは如何なることをいうのであろうか。元来我々の欲求は我々に与えられたものであって、自由にこれを生ずることはできない。ただ或る与えられた最深の動機に従うて働いた時には、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである、これに反し、かかる動機に反して働いた時には脅迫を感ずるのである、これが自由の真意義である」(『善の研究』48、49ページ)

 西田は、「我々の欲求は我々に与えられたもの」であるから、真の自由とは「与えられた最深の動機に従うて働いた時」に感じることができるのだ、と述べています。

 『原理講論』には、「自由意志はあくまでも心の発露である。しかし、創造本然の人間においては、神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことができないので、原理を離れた自由意志、あるいはそれに基づく自由行動はあり得ない。したがって、創造本然の人間には、原理を離れた自由なるものはあり得ないのである」(『原理講論』125ページ)とあります。

 西田の論点をより明確に説明していると言えるでしょう。