信仰と「哲学」61
関係性の哲学~自由について

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 今回から、自由について考えてみます。

 自由には「~からの自由」と「~への自由」とがあり、それほど明確ではないようですが前者は英語ではリバティー(liberty)、後者はフリーダム(freedom)と分けて表現されます。

 リバティーは「様々な闘い・運動を通じて手に入れた自由(人工的な自由)」であり、フリーダムは「漠然と存在している自由(自然発生的な自由)」(Wikipediaより)と区別する説明もあります。
 「~からの」と「~への」自由、いずれにしても関係性に関する概念です。

 以上のことから、政治的な自由はリバティーということになり、「自由と民主主義、法の支配」などと用いられるのです。
 言論、出版、思想・信条、結社、学問、職業選択…などの自由は皆、「~からの自由」という概念の中にあります。

 ここで、『原理講論』に記されている「自由」について考えてみることにします。

 自由の原理的意義として以下の3点を明記していますが、「~からの自由」とは明らかに異なっていると言えるでしょう。

 「自由に対する原理的性格を論ずるとき、第一に、我々は原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。(略)

 第二に、責任のない自由はあり得ない。原理によって創造された人間は、それ自身の自由意志をもって、その責任分担を完遂することによってのみ完成する。したがって、創造目的を追求していく人間は、常に自由意志をもって自分の責任を全うしようとするので、責任のない自由はあり得ないのである。

 第三に、実績のない自由はない。人間が、自由をもって、自身の責任分担を完遂しようとする目的は、創造目的を完成して、神を喜ばせ得るような実績を上げようとするところにある。(略)実績のない自由はあり得ないのである」(『原理講論』第二章 堕落論 第五節 自由と堕落 125~126ページ)

 ここで説明されている自由は、「~への自由」と言えるでしょう。しかし「漠然と存在している自由(自然発生的な自由)」(Wikipedia)との文言では表すことのできない積極的で本来的な自由の意味が述べられているのです。