日本人のこころ 26
大阪・奈良―雄略天皇『日本書紀』

(APTF『真の家庭』247号[2019年5月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

『古事記』と『日本書紀』
 皇太子が天皇に即位され、令和の時代が始まりました。元号は紀元前2世紀、中国・前漢の武帝の時代から始まり、中国文化の影響下にあるベトナムや朝鮮にも広がりましたが、現在も使われているのは日本だけです。中国では清の滅亡とともに廃止され、以後、西暦が使われています。

 日本では645年に最初の元号「大化」が制定されました。同年、中臣鎌足と中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼした「乙巳の変」が起こり、即位した孝徳天皇が定めたものです。

 これまで『古事記』に沿って日本の古代史を述べてきましたが、今回はもう一つの歴史書『日本書紀』を取り上げます。『日本書紀』も『古事記』と同じ681年に天武天皇の命により編纂が始まり、720年に舎人親王(とねりしんのう)によって元正天皇(げんしょうてんのう)に献上されました。『古事記』が主に国内向けに日本式の漢文で書かれたのに対して、『日本書紀』は当時の先進国だった中国に向け、正式な漢文で書かれたものです。両書を合わせて『記紀』と呼ばれています。

 内容については、『古事記』が神武天皇が生まれるまでの神話が中心なのに対して、『日本書紀』は中国に天皇による日本統治を認めさせるため、神代から持統天皇までの天皇の記録が中心になっています。印象としては、『古事記』が物語的で面白く読めるのに対して、『日本書紀』は淡泊な記述です。

 今回は第21代の雄略天皇(5世紀末、允恭天皇7年~雄略天皇23年)を取り上げます。その理由は、物証によって実在が確認できる最古の天皇だからです。もっとも、当時は大王(おおきみ)で、まだ天皇の称号は使われていませんでした。

 埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)や、熊本県玉名郡和水町(なごみまち)の江田船山古墳(えたふなやまこふん)出土の銀象嵌銘鉄刀(ぎんぞうがんめいてっとう)に刻まれた「獲加多支鹵大王」を『古事記』や『日本書紀』に記された雄略の実名である「ワカタケル」と解する説が有力です。また古代中国の『宋書』や『梁書』に記された「倭の五王」中の「武」にも比定されることから、5世紀末に在位していた天皇と推測されています。

 稲荷山古墳の鉄剣は埼玉県行田市にある埼玉県立さきたま史跡の博物館に保管されていて、同博物館でレプリカを見ることができます。江田船山古墳の鉄刀は東京国立博物館に保管されています。

▲猪狩りをする雄略天皇(ウィキペディアより)

豪族連合から統一王権へ
 雄略天皇の時期は、ヤマト王権の勢力が強くなり、大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)制や財政機構を整え、関東までその力が及びました。雄略天皇は古代の天皇の中でも気性が荒く乱暴で、些細な罪で臣下を処刑することも多く、『日本書紀』では「朝に見ゆるものは夕べに殺され、夕べに見ゆるものは朝に殺され」とか、「天下そしりて大悪天皇ともうす」と書かれています。他方、有徳天皇という異名もあります。葛城山で一言主神(ひとことぬしのかみ)と出会った雄略が一緒に猟を楽しみ、帰りは高取川まで送られたので、その豪胆さに感嘆した人たちが、口々に「有徳天皇」と讃えたというのです。そんな側面もあったのかもしれません。

 雄略の暴政に対して地方豪族が反乱を起こしましたが、全て鎮圧されています。彼らにとってはまさに「大悪天皇」でしょう。それまでの倭国は各地の有力豪族による連合体でしたが、専制的な雄略の登場により大王による全国支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったと思われます。もっとも、全国と言っても東は関東までです。

 雄略天皇は第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の第5皇子として生まれました。第20代安康天皇は同母兄で、安康は皇后の連れ子である眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されたとされます。大泊瀬皇子(おおはつせのみこ/即位前の雄略)は兄たちを殺し、さらに従兄弟たちも謀殺して競争相手を一掃し、大王位に就きます。古代においてはこうした兄弟間での争いはよくありました。

 雄略天皇は有力豪族を屈服させ、大王による専制支配を確立しようとしました。大王家の外戚として権勢を振るっていた葛城氏の族長を殺害し、最大の地域豪族であった吉備氏に対しても反乱鎮圧の名目で軍を送って討伐し、吉備氏を弱体化させました。考古学的にも、雄略が在位していた5世紀末頃より、地方豪族の首長墓から大型の前方後円墳が姿を消していることから、ヤマト王権の支配が地方にも及び始めたとされています。

 『記紀』によると、対外関係では、倭国軍が高句麗を破り、新羅に攻め込みますが、将軍が戦死したので敗走しました。その後、高句麗が倭国と友好関係にあった百済を攻め滅ぼしたので、任那の一部を百済に与えて復興させています。479年に百済の三斤王(さんきんおう)が亡くなると、倭国に来ていた昆支王(こんきおう)の次子末多王(またおう)に筑紫の兵500人をつけて帰国させ、東城王(とうじょうおう)として即位させています。

 その他、中国から機織りの部族を招来し、また分散していた秦氏を統率して養蚕業を奨励するなど、渡来人技術者を重用しました。また、渡来系の書記2人を使者として大陸に2回派遣しています。雄略天皇の御陵は大阪府羽曳野市にある島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)とされています。

 このように、古代の日本は大陸や半島の政治情勢の影響を強く受けながら、天皇を中心とする統一政権を次第に確立し、中国・朝鮮から先進的な文化や技術を受け入れ、国づくりを進めてきたのです。