日本人のこころ 25
滋賀―『かくれ里』『西国巡礼』白洲正子

(APTF『真の家庭』246号[2019年4月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

西国三十三所観音霊場
 昨年は西国三十三所観音霊場巡りの始まりから1300年に当たり、各札所で普段は非公開の本尊やお堂が公開され、庭や寺宝の観覧などの記念事業がありました。女神信仰にも通じる観音信仰は、縄文時代以来の命を産み、育む母性への信仰とも言えます。

 能に造詣が深く、青山二郎や小林秀雄の薫陶を受けて骨董を愛し、日本の美についての探究を深め、日本人の信仰にまで思索を広げていった白洲正子は、観音信仰について『西国巡礼』(講談社文芸文庫)で次のように書いています。

 「古代人の野性のエネルギーが、仏教を消化し、発展させたのではないだろうか。そういうものがなかったら、日本の仏教は、抽象的な学問に終ったかも知れない。神の肉体に、仏の精神を与えた、いわゆる本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)には神秘性はなく、はるかに実際的で、かつ健康な思想のように思われる。巡礼をしてみて、一番はっきりしたのはそのことであった。今は地上から消えうせたような神々が、観音様の衣のかげから、ふと顔をのぞかせることに驚いている」

▲白洲正子(1910-1998/ウィキペディアより)

 正子の代表作『かくれ里』(講談社文芸文庫)は、日本が高度経済成長期を迎えたときに、滋賀・京都・奈良・福井などの山里を訪ね歩き、古くから伝わる伝承や歴史、人々の暮らしをエッセイ風に書いたものです。

 『観音経』などに基づいて広く信仰されている観音菩薩は、『般若心経(はんにゃしんぎょう)』の冒頭にも登場し、般若の智慧の象徴とされています。浄土教では『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』により阿弥陀如来の脇侍(わきじ)として勢至(せいし)菩薩と共に安置される大らかな慈悲の菩薩です。日本では飛鳥時代から観音菩薩像が造られ、現世利益をかなえてくれる仏として信仰されてきました。

 観音信仰は、ひたすら人々の救いを願う観音菩薩への信仰で、インドで始まり、中国で発展して、日本に渡って来ました。観音像をよく見ると髭(ひげ)があることから分かるように、観音は本来、男性なのですが、日本では慈母観音のように女性に変化しました。

 その背景には、長野県茅野市で発掘された土偶「縄文ビーナス」のような、古代からの地母神(じぼしん)信仰の影響があるのでしょう。救済への渇望(かつぼう)と母なるものへの憧憬(どうけい)は、どこかで通じ合っています。観音菩薩はいろいろな人を救うために11の顔や千本の手を持ち、33の姿に変化する、母のようにありがたい仏様なのです。

 西国三十三所は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音霊場の総称で、三十三所巡りは最も古い巡礼行です。「三十三」とは『観音経』に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うときに33の姿に変化するという信仰に由来し、33の霊場の観音菩薩を参拝すればその功徳(くどく)にあずかれ、現世で犯したあらゆる罪業(ざいごう)が消滅し、極楽往生できるとされています。

 三十三所巡礼の起源について、宝塚市の中山寺の縁起は次のように記しています。養老2年(718)、62歳で亡くなった奈良・長谷寺の開基・徳道上人が、冥土(あの世)の入口で閻魔大王に「生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多い。おまえは現世に戻り、三十三か所の観音霊場を巡れば滅罪(めつざい)の功徳があるので、人々に巡礼を勧めよ」と言われ、起請文(きしょうもん)と33の宝印を授かりました。現世に戻った上人は、宝印に従って霊場を定めたが、人々が信じなかったため、上人は宝印を中山寺に納め、機が熟すのを待つことにしました。

 徳道上人は656年、播麿国(はりまのくに/今の兵庫県)の生まれで、10代で亡くした父母の菩提(ぼだい)を弔うため21歳で大和の弘福寺に入り、出家します。修行の後、732年にクスノキの霊木から3丈3尺6寸の十一面観音を刻み、これを本尊として開創したのが長谷寺(はせでら)です。

 徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山院(かさんいん/上皇)が紀州国の那智山(なちさん)で参籠(さんろう)していると熊野権現(ごんげん)が現れ、上人が定めた33の観音霊場を再興せよとの託宣を授けました。中山寺で宝印を探し出した花山院は、播磨国の書写山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)の性空(しょうくう)上人に勧められ、河内国(かわちのくに)の石川寺叡福寺(えいふくじ)の仏眼上人(ぶつげんしょうにん)を先達(せんだつ)として三十三所霊場を巡礼し、それを人々に広めたのです。西国三十三所巡りが盛んになるのは江戸時代で、1番札所の紀州・那智山青岸渡寺(せいがんとじ)は伊勢参りのついでに足を延ばしていました。

観音の里
 白州正子がよく訪れた滋賀県長浜市は、130以上の観音をはじめとする仏像が伝わることから、「観音の里」と呼ばれています。古くは奈良・平安時代の像も多く、戦国時代から幾多の戦乱や災害に見舞われましたが、地域住民の手によって観音像は大切に守り継がれてきました。今も地域の暮らしに根付き、人々の信仰や生活と深く結び付いています。

 国指定の観音像と薬師如来像が一番多いのが滋賀県で、そうなった理由の一つは、長浜市の北東にそびえる己高山(こだかみやま)を中心に古代の仏教文化が栄えたからです。奈良時代には興福寺の影響を受け、白山信仰に連なる修験の山でもあり、平安時代には天台宗の中心寺院が建てられ、主尊が十一面観音でした。

 また、阿弥陀如来が来世の救いを司るのに対して、観音様は現世の人を救う仏で、しかも、地蔵のように子供だけでなくすべての人を救うというオールマイティーな仏であることが庶民の信仰を集めたのです。

 長浜市高月町の石道寺(しゃくどうじ)にある十一面観音立像は、ケヤキ材の一木彫極彩色で平安中期の作、小さなお堂を包むような本堂の中に安置されています。石道寺の近くに、「己高閣(ここうかく)・世代閣(よしろかく)」と呼ばれる滋賀県の文化財収蔵庫があります。己高閣にはかつて己高山にあった鶏足寺(けいそくじ)の十一面観音をはじめ数々の重要文化財が、世代閣には世代山(よしろざん)戸岩寺(といわじ)の薬師如来像立像をはじめ仏像、仏画や古文書類が収納されています。

 私がそこで再会したのが鶏足寺の魚籃(ぎょらん)観音。中国の魚売りの女性がモデルで、上半身が裸、胸が豊かに張り出しているのでドキッとします。初めて会ったのは2006年、東京国立博物館の「最澄(さいちょう)と天台の国宝」展でした。北近江は北陸白山系の十一面観音信仰と大和仏教とが習合した信仰圏と言えます。