日本人のこころ 27
京都―梅原猛『最澄と空海』

(APTF『真の家庭』248号[2019年6月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

西洋哲学から仏教へ
 私が京都で学生だった頃、人気を集めていたのが梅原猛の『隠された十字架 法隆寺論』(新潮社)です。当時、梅原先生は立命館大学の教授で、奈良本辰也教授と共に、共産党系の民青が支配する同大で孤立していました。当時の京都府は共産党が支持する蜷川(にながわ)虎三府知事が絶大の力を持ち、北白川の梅原邸に伺うと、家の前の道路は土のままで、「反蜷川だから、舗装してくれないよ」と梅原先生は笑っていました。奥様に出して頂いた桜茶の味も忘れられません。

 振り返ると、私は梅原猛に会うために京都に行ったように思えます。農芸化学の道を進むことを決め、あとは体力さえ鍛えればとラグビー部に入り、1回生の4月から、毎日、北白川グラウンドから大文字山に駆け上っていました。

 しかし、いくら体を鍛えても、心は満たされないことに気づくのに、時間はかかりませんでした。探求は親鸞からキリスト教に向かい、中世日本文学を愛する女子大生との心の触れ合いも楽しみながら、やがて仲間と市民講座を開くようになります。当時、奈良本教授は堀川通りのレストランで「卒業のない大学」を開いていました。

 その講座に招いたのが梅原先生との付き合いの始まり。西洋哲学では日本人の心は分からないと、仏教研究に転じ、さらに独自の視点で日本の古代史を大胆に読み解く手法に魅了されました。当時、最も引かれたのは『美と宗教の発見』(筑摩書房)で、感性的に哲学する手法が斬新でした。

 梅原先生は研究、著作だけでなく、京都市立芸術大学学長を経て中曽根康弘総理を動かし、国際日本文化研究センターを創設するなど実務にも力を発揮します。とりわけ印象的だったのは、東日本大震災復興構想会議の特別顧問として、震災に伴う原発事故を文明災だと断言したことです。荒野に叫ぶ預言者のように、それほどの覚悟と歴史的視点で臨まなければ、この国の危機は乗り越えられないと感じていたのでしょう。

 間近に見る梅原先生はやんちゃな子供のように無邪気で、相手によって差を付けることなく、今考えていることを滔々(とうとう)と語られました。先生との出会いで、初めて「知の喜び」を知ったように思います。

天台密教と真言密教
 梅原先生の膨大な著作の中で、特に愛読しているのが『最澄と空海』(小学館文庫)で、「日本人の心のふるさと」という副題が付けられています。ヤスパースは世界的に偉大な哲学者や思想家、宗教家が活躍した紀元前500年の頃を「枢軸時代」と呼んでいますが、私は最澄と空海が生きた平安時代が、日本の枢軸時代だと思います。それまでの日本の思想が2人によって集約・統合され、新たな宗教・思想として出発したのです。

▲梅原猛・著『最澄と空海』(小学館文庫)

 仏教の歴史を概観すると、紀元前500年にインドで生まれた釈迦仏教は、個人の悟りを最優先する思想でしたが、やがて紀元前後に利他思想に基づく人々の救いを唱える大乗仏教が生まれます。その大乗仏教の最終段階として、7~8世紀にインドで発展したのが密教で、古来のヒンズー教の神々も取り込み、神仏習合の形で成立します。

 インドから中国に伝わった密教を日本に持ち帰ったのが空海で、教学としての密教は空海により日本で完成され、真言密教となります。空海と同じ遣唐使船で804年に中国に渡った最澄は、天台宗とともに密教の一端を持ち帰り、後継者の円仁、円珍らによって天台密教が完成されました。

 入唐の年、38歳の最澄は桓武天皇に重用されたエリート僧で、官費による留学でしたが、31歳の空海は無名の若者で私費留学、そのお金は水銀などの金属を扱う技能部族が出したのではないかと推測されています。

 位でははるかに低い空海が、当時、密教の最高峰だった恵果(けいか)から灌頂(かんじょう)を受け、つまり正統な後継者として認められ、教典や法具など一式をそろえて帰国したので、最澄は空海から密教を学ぼうとします。その2人の交流と葛藤は面白く、やがて袂(たもと)を分かち、別々の道を進むようになります。結果的には、それが日本仏教を豊かにしたのです。

 密教の奥義を窮めた空海は、その修法が皇室に取り入れられ、玉体護持の護国仏教として国を支えるようになります。その象徴が京都にある泉涌寺(せんにゅうじ)で、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれています。

 一方、最澄が開いた比叡山延暦寺は、いわゆる鎌倉仏教の宗祖となった浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮などが学び、日本仏教の総本山の観を呈するようになります。そうやって日本仏教は多くの宗派が生まれることで間口が広がり、民衆に浸透していきました。

 最澄も空海も、古来からの神道を吸収し、仏教と習合させていきます。全ての存在に仏性(ぶっしょう)を認める、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」の思想は、1万年以上続いた縄文時代から日本人が持ち続け、後に神道として表現されたもので、それに理論を与え、思想のレベルに高めたのが世界宗教である仏教と言えます。日本人の哲学の確立を目指した梅原先生が、西洋哲学から日本仏教に目を向けたのも必然だったのです。