信仰と「哲学」59
関係性の哲学~「無知の自覚」と神との出会い

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 イエスの第一の戒めである「心、精神、思いを尽くして神を愛せよ」、ソクラテスの「無知の知」、岡潔の「人は本当は何も分かっていない」との自覚…、全て絶対的主体である宇宙の本体である神の前に、自己を空しくし畏れをもって立つことを意味しています。

 それが「隣人への愛のために」(イエス)必要なことであり、「よく生きること、本当のことを知るために」(ソクラテス)、「一日一日をどう暮らせばよいかを知るために」(岡潔)必要なことであると、時代を超え、地域を超え、賢人の個性を超えて共通に述べられていることなのです。

▲HJ天宙天寶修錬苑

 以前、韓国・清平(HJ天宙天寶修錬苑)での神霊体験、聖霊体験について記したことがあります。ちょうど一年前の40日修練の時の体験です。

 昨年の11月1日の夜、役事後の祈祷において天の父母様(神)の「声」が体中に響き、「私は生きている、今ここにあなたと共にいる」との言葉が心の中に確かに響き渡りました。そしてその時以来、心の中に定着したのです。

 すでに1年になろうとしていますが、その時の経験が生きて定着しているという実感があります。修練前に自分を覆っていた誤った習慣から解放されました。その状態も定着しています。

 若い時に右足の付け根を捻挫した部分が原因となり、身体全体のバランスを崩していた状態も修復されました。このように神霊体験、聖霊体験を心と体にしっかりと刻むことができたのです。

 以来、「希望」の本質は環境の変化ではなく、私自身が変わること、変わり得ることにあると強く思うようになりました。それによって妻との関係をはじめとする、周囲の人間関係も変わっていったのです。この確かな経験が、イエスの二つの戒めの持つ意味の理解につながりました。

 修練に入る時、「自分は神・天の父母様のこと、霊界のこと、先祖のこと、天使のことを全く分かっていない」との強い思いに駆られました。
 信仰生活の第一歩からすでに50年以上も経っているのですが、自分が「無知であることの自覚」を持つことができました。この姿勢ゆえに天の父母様とつながることができたのだろうと思うのです。

 それは『原理講論』に記されている「あらゆる存在をつくっている主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、良く授け良く受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、すなわち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである」(『原理講論』50ページ)との文言の実体験でした。

 天の父母様から万有原力が付与されることにより、心身、隣人や自然などの周辺環境との本当の関わり(良く授け良く受ける作用=授受作用)が始まった感じがしたのです。愛するということの意味を少し分かったような気がしました。