信仰と「哲学」58
関係性の哲学~まず神を愛せよ

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 イエスの「第一の戒め」、「神を愛せよ」について考えてみたいと思います。

 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして」(マタイによる福音書 第2237章)とイエスは言われますので、まず心構えから述べてみることにします。

 聖書の箴言第910節には次のようにあります。
 「主を恐れることは知恵のもとである。聖なる者を知ることは、悟りである」

 「恐れる」は「畏れる」とも表記されることがあり、次に続く「聖なる者」への畏敬へと続く表現です。
 これらの文言が用いられるときの心の構えは、人知を超えた存在の知力、意志力を認め、受け入れようとするものであるといえるでしょう。愛するということを知るための基本的な「姿勢」「生き方」でなければならないのです。

 ソクラテス(紀元前469年ごろ~紀元前399年)は、ギリシャの青年たちに「無知の知」の自覚を促した人でした。そして何よりも敬神家だったのです。
 「無知の知」の心構えは「聖なる者を知る」(箴言)基礎だからであり、イエスや釈尊などと並び聖人と称せられるゆえんです。

 岡潔(19011978年)という世界に誇る数学者がおりました。数年前、岡の講演や執筆稿などをまとめた良書が新潮文庫として出版されました。「数学する人生」(岡潔、森田真生編)です。

 その中に「最終講義」として1971年に京都産業大学の教養講座で講義した内容が収められているのですが、その一部を紹介します。

 「人は一日一日をどう暮らせばよいか。(略)まず『人は本当は何もわかっていない』ということを自覚するところからはじめなければなりません。私たちはたしかに、いろんなことを知っていますが、根底まで訪ねていくと、みな途中で分からなくなって、はっきりしているものなど一つもないのです。(略)

 本当はわかっていない『自分』や『自然』について、勝手に『こうだ』と決めてわかっていると思い込む中から個人主義や唯物主義も出てきました。(略)

 物質的自然の最大の不思議は、物質が法則にしたがうということです。単に法則があるだけではなく、物質はいかなる場合にも、決してその法則に違背しない。(略)

 物質には超自然的な知力があると思うほかない。これは人間をはるかに超えた知力です。(略)

 超人的な知力や意志力。こういうものを認めなければ、自然界は説明できるものではありません」(2531ページ)

 岡が伝えようとしたのは「人は一日一日をどう暮らせばよいのか」ということでした。

 それは岡の講義の最後に、「毎年作文をかいてもらっている。それを読んでみると、口々に『来る日も来る日も生き甲斐が感じられない』と嘆いているように聞こえるからだ」と述べています。