信仰と「哲学」47
関係性の哲学~釈尊の「無」の哲学

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 関係性の哲学とは、「存在の在り方」の哲学です。存在者そのものについての哲学ではないのです。

 統一原理の「四位基台」哲学との関係を前提に、実存主義哲学者であるハイデガーを取り上げて本来的な生き方への考え方と実践について説明してきましたが、核心的内容は自己自身の「死への投企」でした。

 それは、自己を中心とした生き方としての「目的―道具」連関性から脱皮する方法でした。「自分自身の死」に対して直面する時、地位や名誉、財産などを中心とする「目的―道具」連関としての関係性が「無」になることに目覚めるのです。

 人間は、「死への投企」をなせば、「世人」から孤立することとなります。従来の「頽廃(たいはい)」した人間関係が切れるという意味です。しかしそれによって、逆に、他の人との本当の関わり合い、本当の話し合いというものができるようになるのです。

 それを促す力が自発的な良心作用(背後に神の存在が暗示される)であり、他のために生きる愛によって本来的な関係性を作り上げることができるのです。まさに「死なんとすれば生きる」ということです。ハイデガー哲学の結論といえるでしょう。

 ここで、釈尊の思想、哲学についてもう一度取り上げ、整理しておきたいと思います。

 「無」を根底に置く哲学が仏教哲学であるといわれます。
 釈尊の悟りは「全てのものは関係性の中にある」というものでした。この世の全てのものは、さまざまな原因や条件が合わさって成り立っており(縁起)、それ自体の固定的で永遠な実在性は持たないと考えたのです。

 全てのものは生れ、変化し、やがて消滅する運命を免れることができません。しかし、そのような真理に暗い(無明にある)人間は、自分(我)や所有物(我所)に執着する欲(渇愛)にとらわれて迷い、自らを煩わせている(煩悩と苦)のです。

 全てのものは固有の実体を持たず(諸法無我)、絶えず変化消滅する(諸行無常)という真理を悟れば、一切のものへの執着心から解放され、心の絶対的な静けさの境地(涅槃)を実現することができるというのです。

 そしてその境地において人間は、普遍的な命への愛である慈悲心を持って生きるべきであり、そのようになれることを力説したのです。

 釈尊の哲学とハイデガーの哲学、いずれも結論的に提示される生き方は自己否定と他者への愛でした。不安と苦から解放され、平安と喜びの生き方を実現するにおいて、無と愛は切り離すことができない要件となっているのです。