信仰と「哲学」 46
関係性の哲学~実存主義としてのハイデガーとサルトル

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 関係性の哲学としての実存主義、その代表としてハイデガーの『存在と時間』に触れながら、文鮮明先生のメッセージや思想との接点となる内容を説明してきました。

 ところで、哲学や思想、あるいは文学などに関心のある人にとっては、実存主義といえば「ジャン=ポール・サルトル」が思い浮かぶのではないでしょうか。

 私が大学生の頃は、「共産主義か実存主義か」と論じ合うほどでした。それほどサルトルは「有名」であり、まさに「時代の寵児」だったのです。

 サルトル(1905~80)はフランスの思想家です。ハイデガーの影響を強く受け、第二次世界大戦中に刊行したのが主著『存在と無』(1943)です。
 その中には、「現存在」「世界内存在」「実存」「投企」「時間制」「時間化」など、ハイデガーが『存在と時間』の中で用いた概念が登場します。しかし「死に向かう存在」については否定的な見解を示しています。

 サルトルは、人間は未来にある自己を意識し、その未来に向かって自らを投げる、つまり「投企」する存在であるといいます。

 人間が人間であるゆえんは、自らを投企する「主体」であること、「主体」として生きるところにあるとしました。そして自らの「投企」に先立って、私たちが「このようでなければならない」というように決定するものは何もないと強調します。「実存」に先立つ「本質」は存在しないというのです。「実存は本質に先立つ」というわけです。

 私たちが物を、例えば机をつくる場合、それが「どのようなものでなければならないか」という、その「本質」の方がまずあって、それに従って(あるいはそれに向かって)机をつくっていきます。しかし人間の場合は、自らを未来に向かって「投企」するということがまず先にあるというのです。

 このような意味で、「私」は自らの未来の在り方を自分の決断で選び取るのです。「私」は「どのように生きるか」という問題を決定し、自らをつくり出す「主体」なのです。そのような意味でサルトルは「主体性」こそが全ての始まりであると主張しました。

 人間は、今あるところのものであるというよりも、むしろ、今はないものになろうとするものであり、そのことを指してサルトルは、人間は自由であるといいます。「人間は自由そのものである」と。こうして全てが自らの責任においてなされるのであり、サルトルの言う「実存」は「責任」と深く結び付いているのです。

 サルトルは終戦直後に、『実存主義とはヒューマニズムである(邦題は『実存主義とは何か 実存主義はヒューマニズムである』)』(1946)を刊行しました。そこでハイデガーを自分と同じ無神論的実存主義者の系譜に属する思想家であるとした上で、実存主義はヒューマニズムであると主張しています。ヒューマニズムとは、理性を基礎とする人間中心主義です。

 フランスの哲学者で、熱心なハイデガー信奉者であり、ハイデガーをフランスに紹介した人物といわれるジャン・ボーフレ(1907~82)が、この点についてハイデガーに質問する手紙を出しました。それに対する返答としてハイデガーが執筆した論文が、『「ヒューマニズム」についてーパリのジャン・ボーフレに宛てた書簡』(1947)です。この中でハイデガーは、『存在と時間』とサルトルの実存主義は何の関係もないと明言しました。

 ハイデガーの哲学の見えない基礎は神でした。それは「死への投企」によって覚醒されるものという秘められた考えがありました。無神論のサルトルとは違うのです。