夫婦愛を育む 109
愚痴こそが救い?

ナビゲーター:橘 幸世

 未知なるウイルスの世界的流行で、不安が地球を覆っています。皆さんは不安とどう付き合っていますか?

 私が住む地域では感染がまだ身近に迫ってはいませんが、それでも神経質になりがちです。電車の中で近くの人が咳をすればドキッとしますし、主人が外したマスクを置くにも置き方が気になったりします(各人感じ方が違うのだと、何も言いませんが)。

 感染者数が多い地域の人や持病がある人は、さぞかし気を使っていることでしょう。

 以前、人間は「安心」を求めると書きましたが、安心できるような対策や見通しを提示できる指導者・知識人は現時点で誰もいません。不安がパニック買いや他者への理不尽な行動を生み出しています。

 この現状に関して、3月21日付の地元紙に、著名なカウンセラー信田さよ子氏の寄稿が載りました。

 休校やテレワークなどで、突然家族がほとんどの時間を一緒に過ごすこととなり、結構なストレスとなっているケースもあるようです。
 神経質になるあまり、ぶつかることが増えている家族もあるかもしれません。ストレスのはけ口が子供などの弱者に向かわないよう、氏は警鐘を鳴らしています。

 東日本大震災直後に「家族の絆」が強調されましたが、実際には被災地で家族の暴力が多数起きていたそうです。押しつぶされそうな大きな不安の中で、消化できない負の感情が悲しい形で放出されたのでした。

 ではこの不安をどう処理していったらいいのでしょうか?

 大震災で被災した女性は、当時給水車の長い列の前後に並ぶ人たちとたわいもない「おしゃべり」と愚痴を言い合うことだけが救いだったと語った、と氏は紹介し、こう続けています。

 全員が共通の苦しみを抱えている時は、理解や応答といった相互性ではなく、おしゃべりの「言いっぱなし聞きっぱなし」という語りが必要とされるのだ。一方通行にみえるが、じつは批判しない・されないことが暗黙の前提になっているので、相手の反応を気にせず安心して話すことができる。
 この仕組みは依存症の自助グループでもみられる。前代未聞の事態に直面している今こそ、不安エネルギーの最も安全な表出としておしゃべりが必要とされているのではないか。

 もちろん、親が子供相手にこれをするのは賢明ではありません。おしゃべりの相手はきちんと見分けなければなりません。

 信仰の世界では、不平不満はいけない、全て感謝しなさい、と教えられてきました。
 祈りなどで昇華したり切り替えたりして、前向きに越えていける成熟した信仰者であればそれでよいですが、まだそこまでの境地に至っていない人は、愚痴の一つも言いたくなるでしょう。

 言う自分を責めることなく、氏の提言を参考に、“上手に”吐き出すすべを覚えましょう。