愛の知恵袋 106
白衣の天使と佐野常民

(APTF『真の家庭』227号[2017年9月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

被災地に舞い降りる白衣の天使

 福岡・大分で豪雨が始まって1週間。死者19人、安否不明者21人と報道されている今朝の新聞を見ると、日赤大分支部から医師と看護師6人の救護班が派遣されているようです。彼らは救急車と自衛隊のヘリコプターで孤立した日田市小野地区へ入り、活動を始めています。当然、被害甚大な朝倉地区にも、日赤福岡支部から救護班が派遣されているでしょう。

 大災害の時には、必ずそこに、昼夜を分かたず献身的に救護に当たる医師と看護師の姿があります。彼らの働きは、当たり前のように現場に溶け込んでいるため、表立って報道されることもありません。しかし、世界最高と言っても過言ではない高度な医療と懇切丁寧な看護を受けられる私たちは、実に幸せな国民なのです。

 災害が起こって現地の医療機関で対応しきれない時には、必ず日本赤十字社に派遣要請がきます。即座に、日赤社員から選抜された医師と看護師が救護班を結成して現地へ直行する…そのような仕組みを日本に作り上げるために生涯をかけ、心血を注いでくれた人々がいたことを忘れてはならないと思います。

佐野常民の生い立ちと若き日

 佐野常民(つねたみ)は文政5年(1822)、佐賀藩士の下村家の五男として生まれ、9歳で親戚の佐野家の養子となりました。養父の佐野常徴が藩医で外科を専門としていたので、彼は外科医としての修行を始めました。藩校弘道館、江戸の古賀塾、佐賀の松尾塾、京都の時習堂、さらに大阪の緒方洪庵の適塾、和歌山の春林軒塾などで儒学・蘭学・医学を幅広く学んだ常民は、江戸の伊東玄朴の塾に入った時には、短期間で塾頭に任命されるほど、学識・人格ともに秀でていました。

▲佐野常民(ウィキペディアより)

 しかし、嘉永6年(1853)、藩主より精煉方(せいれんかた)の主任を命ぜられ、いったん医学の道から離れて、藩の産業と軍備向上のために理化学の研究指導にあたり、薬品・器械の製造、汽船や汽車のひな型製造などに尽力します。

 安政2年、幕府の長崎海軍伝習所が発足すると、佐賀藩からの伝修生48名の学生長として参加。航海・運用・造船・砲術・蒸気機関の学科と実技を習得し、佐賀藩で慶応元年(1865)、日本最初の国産蒸気船を完成させ、藩の海軍を作りました。

赤十字との出会い

 慶応3年(1867)、パリ万国博覧会に幕府と佐賀藩と薩摩藩が参加。佐野は佐賀藩の責任者として訪欧し、特産品を展示販売しながら、欧州各国の産業・技術から文化・芸術まで、あらゆることを吸収すべく各国の展示館を見学しました。

 その中で、佐野が心を惹かれたパビリオンがありました。白地に赤い十字の標章を掲げたその建物は、4年前(1863)に創設されたばかりの赤十字の展示館でした。

 赤十字の創始者アンリー・デュナンはスイスの実業家ですが、イタリア統一戦争で多数の戦傷者が放置されている惨状を見て、地元の婦人たちと救護に尽力しました。その経験から、戦争で生じる悲惨な戦傷者を助けるために、敵味方の区別なく救済する国際的救護組織を作ることを提唱しました。

 それに賛同したスイスのモアニエが、1863年に国際負傷軍人救護常置委員会(のちの赤十字国際委員会)を発足させ、16か国が出席した国際会議で十カ条の赤十字規約を採択、翌1864年に欧米12か国の政府代表がジュネーブ条約を締結しました。

 国際条約に基づいて人道・博愛を実践する赤十字の活動に佐野は深く感銘しました。この訪欧中、日本では大政奉還が起こり、時代は明治へと大きく変わりました。佐野は明治政府から請われて兵部省にはいり、工部省を経て、元老院議官、大蔵卿、元老院議長、宮中顧問官、枢密顧問官など要職を歴任していきましたが、官職を務める傍ら、最も力を注いだのが日本赤十字社の設立と育成でした。

西南戦争と博愛社の結成

 明治10年(18772月、西南戦争が勃発。熊本城と田原坂での戦いは熾烈を極め、激増する両軍の死傷者が山野に放置されるありさまでした。その報に心を痛めた佐野は、志を同じくする大給恒(おぎゅうゆずる)と話し合って、「博愛社」という救護団体の設立願書を右大臣・岩倉具視に提出しました。佐野はそのまま九州へ赴いたものの、「敵兵も救護する」という趣旨に難色を示す者もあってか許可は下りませんでした。

 それでも佐野はあきらめず、熊本の征討軍本営に行き、山県有朋らに趣旨を説明し、征討総督・有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に願い出ました。

 宮はその趣旨と佐野の熱意に感銘して、53日、博愛社の設立を許可してくれました。佐野は直ちに郷里の佐賀へ赴き、資金と救護員を確保して、熊本や長崎の軍団病院に派遣しました。

▲有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民(ウィキペディアより)

 以後半年にわたる戦時救護に従事した博愛社の救護員は延べ199人(実数126人)、敵味方を問わず救護された患者は1429人に及びました。

 その後、佐野は大給らと共に博愛社の発展に努め、日本政府がジュネーブ条約に加盟した翌年、明治20年(1887)に国際赤十字への加盟が認められ、晴れて「日本赤十字社」として出発することができました。

日本赤十字社の活動と博愛精神

 初代社長に選任された佐野は、社員の募集拡大を図り、赤十字病院を建設し、全国各県に支部を設置して、看護人・看護婦の養成と救護活動を開始しました。

 最初の災害派遣は、明治21年の磐梯山噴火の救護であり、そして、最初の国際救援は、明治23年の和歌山県沖トルコ軍艦エルトゥールル号沈没事故でした。救助された69人の生存者は神戸の仮病院で受けた懇切な治療と看護に感銘し、救護員が去る時には、ある者は涙を流し、全員が感謝の手紙を送ったそうです。彼らは回復後に日本の軍艦で故国に帰国。トルコ皇帝と国民から深謝され、後々までトルコが親日国になる機縁となりました。

 また、戦時の救護も同じ精神が貫かれ、日清戦争では、日本に移送された捕虜傷病兵の救護に当たり、清国の傷病兵1449人が手厚い治療を受け、生きて故国に帰ることができました。

 私は、日本の赤十字のすばらしさは、医療技術の高さだけでなく、救護人の品性と博愛精神の高さにあると思います。

 かの濃尾大地震で救護に向かうとき、佐野が医師と看護婦に対して説いた三カ条の訓戒は、今もそのまま伝統として受け継がれているのです。

一、至誠をもって救護に従事すべき事。

一、奮勉をもって艱苦に耐えるべき事。

一、節操をもって品行を慎むべき事。

(参考文献:吉川龍子著「日赤の創始者佐野常民」吉川弘文館)