愛の知恵袋 105
働くことの幸せ

(APTF『真の家庭』226号[2017年8月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

日本でいちばん大切にしたい会社

 平成20年、経営学者・坂本光司さんが『日本でいちばん大切にしたい会社』という本を出版し、五つの中小企業が紹介されました。その中に、私が特に心を惹かれた日本理化学工業という会社があり、いつか当欄で紹介したいと思っていました。ちょうど今年5月に、小松成美さんが『虹色のチョーク』という本を出版されたので、主にその内容を参考としながら話を進めたいと思います。

 この会社は、神奈川県川崎市と北海道美唄(びばい)市に工場を持つ小さな会社ですが、実に従業員の7割以上が知的障がい者であるという点で大きな特徴があります。昭和12年、現社長・大山隆久さんの祖父・大山要蔵(ようぞう)さんが大田区で創業したこの会社は、主として学校で使われる黒板のチョークを製造してきました。昭和33年には、体に安全な「ダストレスチョーク」を開発して、業績を大きく伸ばしました。要蔵さんのあとを継いだ大山泰弘・現会長が、昭和35年に初めて知的障がい者を採用しました。それまで、身体障がい者の企業への就業は推進されていましたが、知的障がい者、特に重度の知的障がい者の就業は非常に困難とされていました。そんななか、大山会長の家族と社員は一丸となって努力を重ね、知的障がい者の採用を続け、昭和50年には日本初の「心身障害者多数雇用モデル工場」として川崎市に新工場を開設しました。

 しかし、障がい者雇用を維持するために始めた下請け事業が、市場の変化で赤字になり、さらに平成に入ると、少子化で学校のチョーク需要が減少し、企業でもホワイトボードやプロジェクターが主流になって、会社は存亡の危機に立たされました。

 それでも大山会長は従業員を一人も解雇せず、事態打開のため下請け事業を撤退し、新規事業として「キットパス」の開発に心血を注ぎました。20年もの闘いの末、平成21年、ついに、キットパスが「ISOT2009日本文具大賞」を受賞し経営に活路が開けました。キットパスは、ガラスやホワイトボードやプラスチックなどにも自由に描くことができ、濡れた布で簡単に拭き取れる色鮮やかな夢の筆記具です。


写真はイメージです

障がい者を働かせて良いのか…と悩んだが

 昭和62年の法改正で、従業員50人以上の企業は2%の障がい者の雇用が義務付けられましたが、達成している企業はいまだ4割。そんな中で、従業員81人のうち60人が知的障がい者(うち27人は重度障がい者)であり、製造ラインのほぼ100%を彼らが担っているという日本理化学工業は、世界でも類例のない会社なのです。

 きっかけは、昭和34年、一人の養護学校の先生が「生徒を雇ってほしい」と訪ねて来たことでした。「2週間だけの職場体験なら」ということで15歳と17歳の少女2名を預かったのです。実習最終日、意外にも女性社員達が「自分たちが面倒を見ますから雇ってあげてください」と言うので、思い切って二人を採用したそうです。

 箱を組み立てたり、シールを貼ったりする仕事を懸命にしている二人を見ながら、大山社長(当時)には「障害のある人を働かせていいのか…」「こんな苦労をするより、福祉施設にいたほうが幸せではないのか…」という疑問がありました。しかし、ミスをして従業員に叱られ、「もう来なくていいよ」と言われると、「嫌だ!」と言って泣き「働きたい!」と言うのです。大山社長は、ある時、この悩みを禅僧に相談したそうです。

 「物やお金をもらうことが人として幸せではない。人に愛されること。人に褒められること。人の役に立つこと。人から必要とされること…それが幸せなのです。大山さん、その人たちは働くことで幸せを感じているんですよ!」

 この言葉を聞いた瞬間から、世の中の光景も映る色もすべて変わって見えたそうです。そして、「この先、一人でも多く障がい者を雇う会社にしよう」と決意したそうです。

 それからは、製造工程の全てを、各自の適性に合わせて忍耐強く教えていきました。意志の疎通も容易でない中、秤(はかり)の分量の読めない人には色で分けた分銅を考案し、時計の読めない人には砂時計を使う…。工夫に工夫を重ねることで、彼らは作業をこなせるようになり、やがては、健常者が舌を巻くほど、細かい作業に長時間集中できる熟練職人になっていったのです。

働くことの喜びを教えてくれた障がい者

 大山会長は健常者と障がい者を区別せず、給料も最低賃金法の枠を守りました。また、励みになるようにと、社員旅行、お花見、誕生会、忘年会などを行い、頑張った社員には誰でも毎年表彰をしました。

 「働くことが楽しい。ずっとここで働きたい」と言う障がい者の社員達には、社会に良い製品を届けているという誇りがあり、会社には明るく生き生きとした雰囲気ができました。彼らの一心不乱な姿、心から喜んで仕事をしている姿に、かえって健常者たちのほうが刺激を受け、教えられることが多いと言います。

 15歳の時、知的障がい者の第一期生として入った林緋紗子(ひさこ)さんは、その後、68歳まで働き続け平成24年に退職し、今は家族達と穏やかに暮らしています。小松成美さんが彼女の家を訪れて取材をした時のことです。最後に「大好きな会社。大好きな大山会長。今も、働いているのと、おんなじ気持ち…」と言った緋紗子さんの頬には涙が流れていたそうです。

 「人を大切にする会社」…この会社で働く従業員の家族たちはみな、「大山社長とこの会社には、どんなに感謝してもしきれません」と言うそうです。このような会社こそが「本物の会社」と言えるのでしょう。日本と世界中にもっともっと増えてほしいと願わずにはいられません。