夫婦愛を育む 64
「少しだけ、許してあげる」

ナビゲーター:橘 幸世

 「少しだけ、許してあげる」。
 発達障害のある5歳の少年サムが、謝る母親に対して言った言葉です。
 彼の祖父で家庭療法士のダニエル・ゴットリーブが著書『人生という名のレッスン』の中で、娘と孫のやり取りを紹介しています。

 サムが塗り絵に没頭していた、ある日のことでした。そばにいる母に、ターコイズのクレヨンを渡してくれるよう頼みます。家事をしながら息子の世話をしていた彼女は、間違ってライトブルーのクレヨンを渡してしまいます。

 鋭敏な色彩感覚を持ち、こだわりの強いサムは、その間違いにショックを受けます。彼にとって母親の存在は、安心の源。その彼女から予期せぬものを渡されたことをすぐには消化できません。じっと母親を見つめた後、「ママ、気が散っていたんだね?」と結論を出します。「そうよ、サム。許してもらえるかしら?」サムはしばらく考えてから「少しだけね」と答えました。

 普通大人は、許しを請う相手に対して、(極めて大きな怒りは別として)完全に許すべきものと考えたり、相手との対立を恐れたりして、「いいですよ」と言うことが多いでしょう。そして、表向きは許しても、負の記憶は残り、恨みを抱き続けることもあるかもしれません。

 一方サムは、自分の傷ついた気持ちに正直に、「少しだけ」という、彼にとっての「最大限の許し」を母親に与えました。
 孫はその件についてそれ以上考えることはなく、やがて傷も自然に癒え、人生は続いていくだろう、と著者は書いています。

 同書には、クリスチャンならではの悩みを綴った韓国人男性からの手紙も紹介されています。要約して引用します。

 「自分の心を深く傷つけた相手を許すのは、簡単ではありません。自分も他者を傷つけてきたこと、これまでに何度も許してもらってきたこと、これからも許しを請わねばならないことも、分かっています。けれども、自分の気持ちを傷つけた同僚を許せない時があり、ふさぎ込んでしまいます。イエス様が、いつでも兄弟姉妹を許すよう求めていらっしゃることは理解しています。でも、私はイエス様のように完璧ではないから、彼のように生きることが非常に難しいのです」。

 彼の苦悩を共有する信仰者は少なくないのではないでしょうか。傷つけられた時、それに対する正しい行いは許すことだと頭では分かっていても、できずに苦しみ、できない自分を責める。

 著者の返事を一部紹介します。
 「許しについて心配しないことです。ただ、自分の傷を癒やしなさい。…それができたら、その経験から得た知識を生かして、世界を癒やす手伝いをしましょう。許しにこだわってはいけません。人生を歩んでいく中で、いつか許すことができればよいのです。…」
 自分の気持ちに無理なく、サムの言葉を借りれば、できない自分を今は少しだけ、許してあげたらいいのかもしれません。