2026.05.25 22:00

スマホで立ち読み Vol.43
『子女と向き合うことは神様と向き合うこと』2
蝶野知徳/著
『子女と向き合うことは神様と向き合うこと』の一部を「立ち読み」でご覧いただけます! 毎週月曜日にお届けします。
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第一章 神様から出発する子育て
1. 神様から教育を出発する
神様は、愛の主人です。親子の関係を構想し、創造されたのも神様です。当然、「教育」という概念も神様から始まったものです。ですから、私たち父母は自分の思いで子女の教育を考えるのではなく、その神様から教育を考えるべきなのです。
実体で子女の成長に責任を持っているのは、私たち父母です。そして、父母は神様に代わってその役割を果たしていく立場ですから、私たちには神様が絶対に必要です。神様から受けた愛の実感の中でこそ、子女を本当に愛し、教育を出発することができるのです。
子女が本来受けるべき愛の基準を考えたとき、私たち父母は神様に対しても、子女に対しても、常に愛の負債を負った立場です。どれほど子女に尽くしているつもりでも、犠牲や苦労を重ねていたとしても、たとえ子女から美が返ってきたとしても、父母は常に愛の負債を負っています。それは、父母である私たちの愛が足りないという意味以上に、神様の愛が圧倒的であるからです。その神様の愛を背景に、子女を愛するのです。子女に向けた愛に限界はありません。ただどこまでも、神様の真なる愛の基準を目指して心を使い、投入し続けるだけなのです。
愛は、限りなく投入しても、まだ不足だと感じる性質を持っています。一般社会における親の愛でさえそうであるのに、まして私たちが神様の子女を育てようというとき、どれほど深刻な立場に自分を立てたかということをいつも考えさせられます。
子女を見つめるとき、子女に接するとき、“私”自身がそれを神様と向かい合う時間として、どれほど長く感じられるかということです。子女に対しながらも、実際は神様と向き合っているのです。このことからも、子育てにおいて、子女だけを扱うということは絶対にあり得ないことだと分かります。それが、祝福家庭の子育てと一般社会における子育ての全く異なるところです。
子女に関わるには、中心が必要です。関わり方や方法論に中心がなければ、その場凌(しの)ぎの対応に終始することになります。多くの父母は、起こった問題に対して、解決の方法論だけを探そうとしがちです。それは、方法論から中心を探し出そうとしていることになります。しかし、対処の仕方だけを集めてみても、それを横に並べただけでは中心がありません。このように出来事や環境にただ主管されている状態では、子女はその時々に必要な愛を受けることが難しくなります。私自身の成長や再創造と、子女を育むことには、大きな関係があるということです。
ただ、そういう中でも神様は、私たち父母の成長と共にいてくださいますので、多くの失敗や過ちを通して、父母自身を教育してくださることも多いのです。間違いがあったとしても、ある結果や現象を見せて、それを痛感させ、育ててくださるのです。そのような「教育の神様」にいつも感謝するのです。
子育ては、与えられた「父母の立場」から出発して、「本当の父母」となっていく学びです。すなわち、神様からの教育を受けることなのです。子女を育むことの中に神様の「愛の意図」を感じながら、子女を見つめ直してみましょう。子女を捉える心にも変化が生じてくるはずです。
《ここが大切!》
*神様から受けた愛の実感の中で、子女を愛し、教育する
*子女と向き合うことは、神様と向き合うこと
*子女を通して、私自身が再創造され、教育される
《分かち合おう》
子供を通して神様の愛の意図を感じた体験があるか、振り返ってみよう。
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次回は、「祝福子女の背景」をお届けします。お楽しみに!