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文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写 32

陰徳を施す

 アプリで読む光言社書籍シリーズ第3弾、『文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写』を毎週木曜日配信(予定)でお届けしています。なお、この記事に記載されている「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は創芸社出版のものです。

浅川 勇男・著

(光言社・刊『心の書写~文鮮明師自叙伝に学ぶ~』より)

【第九章】陰徳を受けたときは、必ず、もっと大きくして返す

 家計簿では収入を大きくして、大きな支出をなくすことが、やりくりの秘訣でした。同様に、幸運の家計簿では、多く尽くして大きな世話にならないことが、幸福となる秘訣となります。では、人から尽くされることで、最も大きな支出となるのは何でしょうか。

 それが、陰徳を受けることなのです。陰徳を受けることが、大きな幸運の支出になってしまうのです。そこで、文鮮明先生は、「陰徳を受けたときは、必ず、もっと大きくして返すのが人の道です」(自叙伝、77ページ)と言われるのです。

 逆に言えば、陰徳を施すことは大きな幸運の収入となります。では、これほど大きな収支を決める陰徳とは、どんな徳なのでしょうか。徳とは、一般的に、人を愛し尽くす品格を意味します。それにしても、「徳」の前に「陰」のつく尽くし方とは、どんな尽くし方なのでしょうか。

 陰は、目立たず、控え目という意味があります。陽の逆です。人に尽くすことは陽となってもいいのに、目立たず、控え目に尽くすので、陰となるのです。

 陰徳には二つの特色があります。

 一つは、「人に尽くして、見返りを求めない」ということです。

 人への尽くし方には、見返りを求めて尽くす場合と、求めずに尽くす場合と、二つあります。社会的に無名の時には誰からも無視されていた人が、議員や経営者、芸能人となって有名になってから、多くの人から尽くされる(?)ことがあります。なぜ、多くの人がこの人に尽くすようになったのでしょうか? この方の地位や利権を利用するために尽くしているとも考えられます。ですから、尽くしても見返りがなければ、背信しないとも限りません。もし、その人が地位から転落すれば、誰も見向きもしなくなるかもしれません。利用価値がなくなったとみなされるからです。

 尽くすことは徳となりますが、見返りを求めれば、美しさは消滅し、むしろ醜くなります。

 文鮮明先生も、今日では韓国をはじめ世界的に著名な宗教的指導者となっていますが、全く無名の時代がありました。学生時代は、普通の苦学生と思われていたのです。でも、その時、文鮮明先生に尽くした人たちがいました。一介の苦学生に何かを感じて尽くした人たちがいたのです。その一人一人の名前を生涯忘れないと文鮮明先生は言われます。

 「漢江(ハンガン)の川辺で礼拝を捧げた日のことです。昼食時間になって、会衆はばらばらに座ってご飯を食べ始めました。昼食を取らない私は、その中にぼんやり座っていても仕方ないので、一人だけすっと後ろに離れて、川辺の石の小山に座っていました。それを見た宋(ソン)おばさんが、パン二個とアイスケーキを二個持ってきてくれました。それがどれだけありがたかったかしれません。一つ一銭で、全部で四銭にしかならないものでしたが、おばさんの心遣いは今も私の心に刻まれています」(同、77ページ)

 陰徳のもう一つの特色は、「尽くした私の名前は忘れてください」ということです。

 自分の名前を覚えておくことを相手に要求しないことです。「私が尽くしました、与えましたよね」と、強要しないことです。ただ尽くしたいだけ、それでよいのです。

 尽くしたから美徳なのではなく、動機に自分がないから、美徳となるのです。それが陰徳なのです。人によっては、自分の名前を相手に覚えさせ、忘れさせまいと執念を持つ人もいます。なかには、「何年何月、私、あなたに尽くしたよね。覚えてる?」などと電話で確認する人もいます。丹念に記録して「私が尽くした帳」を作成している人もいます。

 文鮮明先生は、「真(まこと)なる愛は、愛を与えたということさえも忘れ、さらにまた与える愛です」(同、5ページ)、「与えても、与えたという事実そのものを忘れてしまい、絶えず与えるのが愛です」(同、220ページ)と言われています。陰徳とは、真の愛で愛することと言えます。

 それゆえ、陰徳を施すことを心掛け、陰徳を受けたら、もっと大きく返さなければならないのです。(続く)

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 次回は、第九章の「受けた恵みを隣人に施す」をお届けします。


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