2025.09.28 22:00

ダーウィニズムを超えて 130
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。
統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著
第九章 科学時代の新しい神観
(二)統一思想による新しい神観
(4)心情の神
—愛による創造—
1. 従来の神観における創造の理由の不明
キリスト教において、神の本質は愛であるが、その愛は自由な愛であり、根拠なき愛であるとされる。つまり神は何か特別の理由があって愛されるのではなく、ただ一方的に愛されるというのである。すなわち神の愛は対象に無関係に成立するのである。したがって組織神学者のヘンリー・シーセン(Henry C. Thiessen)が言うように、「この宇宙や人間は必ずしも神の愛の対象としてあるわけではない(*22)」のであり、スイスの著名な神学者カール・バルト(Karl Barth, 1886~1968)によれば、「世界と人間がなくても神は孤独ではない(*23)」のである。神は自己充足的な完全なお方であり、神の愛とは、完全なる神から罪深い人間に一方的な恩寵(おんちょう)として与えられる賜物であった。
そうであるならば、神はなぜ人間と宇宙を創造されたのであろうか。それに対してシーセンは神の栄光を現すためであると言い(*24)、組織神学者のジェーコブズ(H. Jacobs, 1844~1932)は神の完全性を現すためであると言う(*25)。しかし、それでは明確な解答になっていない。神が自己充足的な完全な存在であるならば、神の栄光も、完全性も、自己充足的であるはずだからである。
かくしてキリスト教において、神と人間の間には大きな断絶があった。しかし、神が人間と宇宙を創造された必然性がないとするならば、神の存在に確信がもてなくなってしまう。神が必ずしも創造しなくてもよかった人間、必ずしも愛さなくてもよかった人間であるならば、人間のほうから見るとき、そのような神は絶対に必要な存在であるとは感じられないからである。そこには無神論が台頭する余地があった。そして実際、フォイエルバッハのように、神が人間を造ったのではなくて、「人間が神を造った」という主張まで現れるようになったのである。
フォイエルバッハによれば、人間の本質は理性、意志、愛である。人間は個人としては不完全であるが、絶えず完全性を願いながら、思惟し、意欲し、愛そうとしている。そこでフォイエルバッハは、完全なる理性、完全なる意志、完全なる愛などを、類としての人間の本質(類的本質)であると考えたのである。そして彼は、人間の本質である類的本質を対象化したものが神であると主張した。画家は心の中に描いた構想を対象化して絵を描く。それと同じように人間は、自分の中にある人類としての理想を対象化させて、神として崇(あが)めているというのである。つまり、神が人間や宇宙を造ったのではなくて、人間が神を造ったというのである。
ところが、そのように攻撃されてもキリスト教は十分に反論できなかった。神がなぜ人間と宇宙を創造したのかという理由がはっきりと分かっていれば、確信をもって反論することができる。しかし、そうでなかったので、フォイエルバッハのような主張を許すことになってしまった。そしてこのようなフォイエルバッハの無神論を土壌として、マルクス主義が成長したのであった。
他の宗教においても、同様に、神はなぜ人間と宇宙を創造されたのか明確ではなかった。イスラム教では、アラーが「真実を実現する」ために世界を創造したとある。しかし、キリスト教と同様、なぜ完全で全能なるアラーが人間と万物を創造されたのか、明らかではなかった。東洋の易学においては、太極から陰陽が分かれて、そこから四象が生じ、さらに八卦が生じ、万物ができたと説明している。しかしなぜ、太極から陰陽が生じ、四象、八卦、万物へと展開していったのか、その理由を明らかにしていないのである。
*22 ヘンリー・シーセン、島田福安訳『組織神学』聖書図書刊行会、1961年、216頁。
*23 佐藤敏夫『キリスト教信仰概説』ヨルダン社、1992年、45頁。
*24 ヘンリー・シーセン、『組織神学』282頁。
*25 H・ジェーコブズ、鍋谷尭爾訳『キリスト教教議学』聖文舎、1982年、71頁。
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次回は、「現代科学の立場から見た宇宙創造の原因」をお届けします。