2025.08.03 22:00
ダーウィニズムを超えて 122
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。
統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著
第九章 科学時代の新しい神観
(二)統一思想による新しい神観
(1)精神と物質の根源としての神
—性相と形状の二性性相の神—
2. 新しい精神・物質観
統一思想の主張する神は「本性相と本形状の二性性相の中和的主体としてすべての存在界の第一原因」である。本性相とは、被造物の無形なる、機能的な、精神的な要素の根本的な原因となるものであり、本形状とは、被造物の有形なる、物質的要素の根本的な原因となるものである。神が「本性相と本形状の二性性相の中和的主体」であるとは、神は本性相と本形状という二つの属性をもつ存在でありながら、神において本性相と本形状は分離されているのではなく、一つになっているということである。
唯物論においては、いかにして能動的な働きをもつ精神が生じるか、合理的に説明できなかった。唯心論においては、宇宙を形成する材料としての物質がいかにして生じるか、合理的に説明できなかった。二元論においては、アリストテレスのように、絶対者としての神を認めながら、神と独立した物質世界を認めるという難点があった。さらにデカルトのように精神と物質の相互作用が合理的に説明できないという難点があった。またブルーノやシェリングのように、神を絶対的同一性としてとらえると、そこからいかにして精神と物質が生じるか説明できないという難点があった。
それに対して、神を「本性相と本形状の二性性相の中和的主体」であるととらえる統一思想においては、これらの難点がすべて克服されているのである。すなわち。神は絶対的同一性でなく本性相と本形状の二性性相であるから、神から精神と物質が生じるのであり、神の中では性相と形状は一つになっているので、現象世界において、精神と物質は全く異質なものではない。精神にも物質的要素があり、物質にも精神的要素があるのであって、両者は相互に作用するようになっているのである。
統一思想から見るとき、神の性相にはさらに内的性相と内的形状という二つの側面がある。内的性相とは心の中の知情意の機能であり、内的形状とは心の中の形の要素であり、観念、概念、法則(原則)、数理などをいう。したがって神の性相(心)は、内的性相と内的形状の授受作用によって営まれているのであり、そのとき、授受作用の中心になっているのは、知情意の核心を成す心情すなわち愛である。
ヘーゲルは概念またはロゴスが神であると考えて、概念の弁証法的な自己発展について説明した。しかし先に述べたように、概念がひとりでに発展することはありえない。心情を中心とした知情意の機能の作用のもとで、概念は心の内的形状の中に形成されるものであり、さらに概念と概念が組み合わせられて、新たな概念がつくられていくのである。
現代の科学は、宇宙の始めにビッグバンを生み出したのは「原初的エネルギー」(ジャン・ギトン)であるとか、「無の様相をもつ無限のエネルギー」(ジョン・ホイーラー)であるとか、「真空のエネルギー」(アレックス・ビレンキン)であるという。これらは神の本形状のもつエネルギー、すなわち被造世界のエネルギーの前段階であると見ることができる。統一思想では、神の本形状のエネルギーを「前エネルギー」という。「前エネルギー」は被造世界に現れるとき、「形成エネルギー」と「作用エネルギー」として分かれてくる。レーダーマンは初めに素粒子一種と力一種の世界があると言ったが、それはそれぞれ「形成エネルギー」と「作用エネルギー」に相当するものである。この二つのエネルギーは神の形状においては「前エネルギー」として一つになっているのである。
物理学者は宇宙が始まる前の真空には潜在的なエネルギーが蓄えられていたと考えているが、そのエネルギーの場を「ヒッグス場」という。そのことをレーダーマンは「初めにヒッグス場ありき(*13)」、「ヒッグス場にはエネルギーが満たされている(*14)」と言い、ヒッグス場に働いている粒子(ヒッグス粒子、ヒッグスボソン)のことを「神の素粒子」と呼んでいる。このヒッグス粒子の作用によって、あらゆる粒子が現れ、質量が生まれたという。このような現代の物理学の見解と統一思想の観点をまとめると図9-2のようになる。
今日、量子論により、物質的なものと非物質的なものに断絶はなくなった。フランスの哲学者ジャン・ギトン(Jean Guitton, 1901~1999)によれば、物質と精神の間の区別はハイゼンベルグの言う粒子性と波動性の相補性に相当するものである。そして今や、従来の精神主義(唯心論)や唯物主義に代わって、精神と物質の総合、精神と物質の究極的融合という第三の道を見いださなくてはならないと言い、その立場を「超実在論」と言っている(*15)。これは統一思想の主張する「本性相と本形状の二性性相の中和体」としての神に通じる見解である。
ところで統一思想の神観は汎神論ではない。神はあくまでも自然界に対して超越的な存在である。神の二性性相が象徴的に現れた個性真理体が万物であり、自然界なのである。すなわち自然がそのまま神ではなく、神の象徴的な表現なのである。人間と自然では神の現れ方が異なっている。すなわち神は人間を通じて形象的に現れ、万物を通じて象徴的に現れる。形象的にとは、神の性質(神性)と神のかたち(神相)が、高次元的に、直接的に現れるということである。しかし人間は神そのものではない。神は超越的存在でありながら、人間に内在されるのである。
統一思想の主張する新しい精神・物質観は、神を人格的な創造主であると見るだけでなく自然科学の立場を無理なく受け入れるものである。それは神学(哲学)と科学が調和的、統一的に発展しうる基盤となるものである。
*13 レオン・レーダーマン、高橋健次訳『神がつくった究極の素粒子』草思社、1997年、下巻、318頁。
*14 同上。
*15 ジャン・ギトン他、幸田礼雅訳『神と科学』新評論、1992年、189頁。
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次回は、「男性と女性としての神」をお届けします。