スマホで立ち読み Vol.38
『“人さらい”からの脱出』15

小出浩久・著

(光言社・刊『“人さらい”からの脱出 違法監禁に二年間耐え抜いた医師の証言』〈2023年11月20日改訂版第2刷発行〉より)

 スマホで立ち読み第38弾、『“人さらい”からの脱出』を毎週水曜日(予定)にお届けします。
 2年間にわたる拉致監禁後、「反統一教会グループ」の一員として活動した経験のある筆者。そんな筆者が明らかにする、「脱会説得」の恐ろしい真実とは。

 今回は、前回の続きからお届けします。

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1 15カ月間の監禁生活

三、東京のマンションでの説得⑦

 監禁されて約1カ月が過ぎた712日の昼すぎ、「小出先生、頑張ってください」という声が外から聞こえてきた。

 皆、あわててカーテンを閉めたり、大声をあげて部屋の中は騒然となった。

 勤務先の一心病院の職員たちが、私が監禁されていた場所を捜し当ててくれたらしい。

 その日の夜遅く、私は突然起こされ「ゆっくり話し合いを続けるために場所を移すことになった」と言われた。このとき私は、一心病院側に私の監禁場所が分かったので逃げることにしたのだろうと思った。

 しかし、実はそれだけではなかった。後になって分かったことであるが、この日、私の身を案じた一心病院から提出されていた「人身保護請求」が東京高等裁判所に認められ、裁判所からの呼び出し通知が監禁場所のマンションの郵便受けに配達されたのだった。

 家族はそのことを宮村氏に報告した。

 裁判所からの呼び出しには必ず出頭しなければならない。出頭しないと、人身保護請求を提出した一心病院の職員と警察か裁判所の係官が訪ねてくることもあり得る。裁判所に出頭すれば、拉致・監禁の事実がばれてしまう。

 そう考えたのであろう。宮村氏は裁判所の命令を無視するには、そこから逃げ出して、監禁場所を移すしかないと判断し、脱会活動で協力しあっていた松永堡智(やすとも)牧師に依頼して、新潟のマンションへ移れるように頼んだのであった。

 1年半後、監禁から軟禁状態へと解かれた私は、両親からその通知書を見せてもらい、そのときの事情を聞かされた。私は高等裁判所による人身保護請求とは人権を守る力が本当にあるのだろうかと思った。

 宮村氏も「たまには松永先生に厄介になることがあってもいいと思って頼んだんだ」と言っていたらしい。

 監禁場所を移動したのは通りに人の絶えた深夜だった。

 マンションの部屋から出る前に、トイレに入り、その中で祈った。

 「逃げろ!」と神様が叫んでいるように感じとれた。

 しかし、外ではマンションに連れ込まれたとき以上に厳重な警戒が敷かれていた。元信者と思われる数十人もの人がマンションの入り口を取り囲み、私が自家用車に乗せられるのを見張っていた。両脇は固められ、すき間のないほどに周りを元信者で固められてしまった私は、抵抗しても無駄だと感じ、逃げることをあきらめて車に静かに乗り込んだ。その車は自治医大の元助教授の小藤田氏が運転していた。

 私は神に祈った。

 「逃げることはできませんでした。しかし、私はあなたから離れず、必ずあなたの栄光をあらわしてみせます」と。すると、神から光が注がれているのを感じ、神が「よし、頑張れ!」と呼びかけているように感じた。

 マンションを出てから、車はしばらくして高速道路に入った。車は時速150キロほどの猛スピードでとばし、途中どしゃぶりの雨となったが、それでも速度は落ちなかった。宮村氏から小藤田氏に何回も電話が入り、もっと急げとせかされていた。小藤田氏は「もうこれ以上急ぐのは無理ですよ」と、携帯電話に向かって悲鳴をあげていた。

 余り急ぎすぎたせいもあったのか、元信者の乗った後続車は、小出町のあたりで中央分離帯に乗り上げるという事故を起こしてしまい、大破したが、幸い乗っていた人たちは軽傷を負った程度だった。

 途中の看板で、新潟市に向かっていることだけは分かった。

 713日、午前530分ごろ、新潟市万代のマンションの一室に入った。

 この時、T氏の他に十数人の元信者が見張りも兼ねて迎えに出ていた。父、母、姉、弟、そして姉の夫、子供2人、父の知人はここまで付き添ってきていた。東京で監禁を開始したときにいた人数からすれば、かなり減ってはいたが……。

 移ったマンションの一室のドアは、東京のときと同様にチェーンで閉じられ、窓の鍵も開かないようにされていた。当然、テレビも新聞もなく、外界からの情報は遮断され、心理的には孤独な閉塞状態が続いた。

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 次回は、「潟での説得、逃げ回る生活の始まり①」をお届けします。



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