https://www.kogensha.jp/shop/detail.php?id=4329

内村鑑三と咸錫憲 29
日本による植民地支配に対する摂理的理解

魚谷 俊輔

 韓民族選民大叙事詩修練会において、内村鑑三が近代日本の偉大なキリスト教福音主義者として紹介され、その思想が弟子である咸錫憲(ハム・ソクホン)に引き継がれていったと説明された。
 咸錫憲は文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁が若き日に通われた五山学校で教師を務めた人物だ。そこで内村鑑三から咸錫憲に至る思想の流れを追いながらシリーズで解説したい。

 このシリーズのスピンオフとして、咸錫憲と文鮮明総裁という、二人の思想的巨人の共通点を探るシリーズの6回目である。

 今回は、日本による植民地支配に対する咸錫憲と文総裁の捉え方を比較したい。その捉え方は表現においてはだいぶ異なるが、本質的な部分で一致している。

 通常、韓国人は日帝時代を不当な植民地支配であると捉え、日本に対して謝罪を要求する。
 しかし咸錫憲も文総裁も植民地支配を論ずるに当たっては、日本に対する恨みや断罪を前面に出すことはなく、そこに神の意図を見いだそうとする。

 咸錫憲は、日韓併合の原因は世界史が大きく動こうとしていた時代に韓国人が目覚めることができずに、旧態依然とした考えにとらわれ、内部闘争に明け暮れていたからであったと指摘する。

 その結果、国が完全に滅んでしまい、よりによってそれまで見下していた日本の植民地になることによって、「民族の恥がいまや終わりをみたのである」(『意味から見た韓国歴史』、298ページ)と語っている。

 咸錫憲によれば、韓民族の苦難には「ハナニム(하나님/韓国語で“神様”の意味)の摂理」としての贖罪的な意味があり、それは歪(ゆが)んだ民族性を矯正するための神の愛の現れであった。その意味で、日帝36年はそのクライマックスであったといってよいであろう。

 しかしそれでも韓民族は悟ることができなかった。日本の皇民化政策は精神的に韓民族を抹殺しようとするものであったが、それに対抗して韓国人自らが民族的精神や理想を打ち立てることはできなかった、というのが彼の評価である。

 1945815日の解放は、誰か人間の企てによって実現したものではなく、「盗っ人のようにふいに訪れた」(同、302ページ)のであり、「天からの贈り物」(同、304ページ)であったと咸錫憲は言う。

 それを一部の者たちが自分の手柄だと主張することを、咸錫憲は厳しく批判する。「この解放は、民主主義者がしたのでもなく、共産主義者がしたのでもなく…天のたまものとしか考えられない」(同、308309ページ)から、感謝することしかできないという。

 『原理講論』は再臨論において、多数の良民を殺戮(さつりく)するなど、この時代に日本が行った残虐無道な行為を列挙している。
 しかしこの記述の結論は、日本人を断罪することにあるのではなく、その苦難は、韓民族が第三イスラエル選民になるために必要な蕩減条件であったということだ。

 時が満ち、「40日サタン分立基台」が立ったので、天の摂理によって韓国は日帝の支配から解放された。
 問題は、日本の植民地支配を断罪することにあるのではなく、その摂理的な意味を韓民族が悟ることにある。

 咸錫憲はその意味を問い続け、民族の思想的貧困を嘆いた。文鮮明総裁は日帝支配の摂理的な意味を解き明かし、解放直後に再臨主としての本格的な歩みを開始した。