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心情開拓
心霊を育てる生活原則(211)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』〈200549日第3版発行〉より)

24 真を求めよ
(1994年10月23日 札幌教会)

▲李耀翰先生

「真」には「自分」がない

 敬礼式をする目的は、夫婦に互いに敬礼したい心をもたせるためです。お父様に敬礼するのは、お父様の願いではないのです。お互いに敬礼したがる夫婦にならせたくて、敬礼をさせたのです。親が自分の子供にあいさつを教える時に、お父さんにあいさつせよというのは、お父さんが受けたくてさせるのではありません。将来、尊敬される人間にならせたいからです。親が子供に対して、小さいころからよくあいさつさせる目的は、その実体の本人にあるのです。敬礼をよくする人が、敬礼をされる人になるからです。

 ですから、御父母様への敬礼式は、お父様が敬礼を受けることを願って行っているのではありません。私たちがお父様に敬礼して、お互いに敬礼する家庭、敬礼できる自分になりたいからです。だれと敬礼し合う心をもてば幸福ですか。一番自分に近い人と、自分の生活圏の人とです。自分を否定して、「ために」暮らしたがる心をもてば、敬礼の生活なのではないでしょうか。ですから、「自分」はありません。主体者のために、あるいは相対者のために「自分」はあるのです。この心情が敬礼する心ではないでしょうか。無責任に、敬礼だけして終わったと思わないで、敬礼の心をもって、敬礼の心情で侍りながら暮らすのです。

 ですから、夫婦が幸せになるのは簡単なのです。自分勝手に暮らさないということです。男性は自分の妻を喜ばせる目的で暮らし、女性は自分の夫を喜ばせたくて暮らすのです。お互いに全く同じです。自分を否定して、愛だけを実現したくて夫婦になったのです。自分を肯定したくて夫婦になったのではないのです。愛を絶対的に樹立するために夫婦になったのです。愛が中心です。

 祝福家庭がこのような夫婦観、価値観をもって、自分の存在は真の愛を樹立するためにあるという生活観を、はっきり心に打ち立てなければなりません。どのようにすれば、私たちの家庭に愛を実現することができますか。悲しみはどこで求めますか。苦痛を通じて求めるのです。迫害を通じて求めるのです。葬式をしている家に行って求め、悲しい家に行って求めるのです。聖書には、悲しい人を愛して悲しみを求める、憐(あわ)れんで求める、とあります。ですから、悲しみを発露するために努力しなさい。そうすれば真になります。

 迫害する家を訪ねていき、統一教会を一番憎む人の所へ行って蔑視(べっし)されましょう。お父様の悲しみを体験しに行きましょう。これは苦痛です。嫌なことは苦痛でしょう? 嫌なことを求め、悲しみを求めましょう。嫌なのは嫌だ、好きなのはいいというのは肉心です。肉心は苦痛を担当したがりません。肉心は苦痛を一番嫌がります。さあ、方法ははっきり分かりました。

 統一教会の夫婦は、真は何であるか、はっきり分かりました。自分勝手ではない人。自分の相対者を喜ばせるために心を込める人。気持ちが悪いとか、嫌であるとか、不平などがない、「自分」がない人。愛の前には「自分」がないのです。苦痛や悲しみの前にも、「自分」がありません。「自分」をなくさなければ、自分の中心に真の愛は始まりません。

 家庭では、いつも子供たちを立てて、「歌を聞きたい」と言って、歌わせます。子供は「自分」がありません。子供の中に、自分をなくすためにそういうことをさせます。食事の前に、「だれか一つ歌を歌って食事を一緒にしよう」、そのようなことを家庭でできるだけするようにし、自分が食べたくて食べるのではなく、喜ばせて食べるようにします。何かに服従して食べます。服従する訓練です。服従はなかなか嫌なことです。それを、お父さんが願うのならば喜んでしたい、というふうに、子供のころからやらせれば、徐々に慣れていくのです。

 そういうふうにしていると、気持ちが悪くないのです。服従しても気持ちが悪くありません。子供の時から、そうさせるのです。お互いに自分勝手なところを見たなら、いかに早く清算してあげるかというのが、親の教育です。身勝手さだけなくせば、孝行心だけ残ります。夫婦も身勝手さだけなくせば、愛だけが残るのです。皆さん、自分の身勝手さだけ否定すれば、何が残るのですか。相手の事情だけが残ります。自分の存在というものは、相手の心情を喜ばせるためのものであるということを、はっきり確認しなければなりません。

 学生たちはみな、だれのために暮らしていますか。自分の勝手に暮らしています。ですから、このことは毎日、私が話さなくてはならないのです。皆さんが聞きたくなくても、もう教会に来れば、身勝手さをなくしてきましたかと尋ねなくてはなりません。いろんな人間関係の中で、どれほど自分を否定しながら相手を喜ばせて暮らすかが問題です。相手を喜ばせて暮らしましょう。

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 次回は、「主体者の悲しみと共にある自分」をお届けします。


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