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ダーウィニズムを超えて 113

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
 そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。

統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著

(光言社・刊『ダーウィニズムを超えて科学の統一をめざして』〈2018520日初版発行〉より)

第九章 科学時代の新しい神観

(一)科学時代における神の再発見

1)従来の神の存在証明
 キリスト教における最初の哲学的な神の存在証明は、カンタベリーの大主教・聖アンセルムス(Anselmus, 10331109)によってなされた。これは神の概念を根拠として、神の存在の必然性を証明する方式であって、「存在論的証明」といわれるものである。アンセルムスの証明は次のようであった。「最も完全なるもの」という神の概念がわれわれの思考の中にある。それは神が実際に存在しているからである。単に思考のうちだけにあるものよりも実在するもののほうが、より完全である。したがって、もし神が存在しないとすれば、神以上に完全なものがありうることとなり、「最も完全なるもの」という神の概念が成立しえなくなる。ゆえに神は存在しなければならないというのである。

 デカルト(Descartes, 15961650)はアンセルムスの存在証明に加えて、「不完全なわれわれが、完全なる神の概念をもっているということから神の存在が証明される」と主張した。何ものも無から生ずることはできないのであり、原因の中には結果より多くの、あるいは少なくとも同じだけの実在性(完全性)が含まれていなければならない。もし、われわれが神の概念をつくり出したのであれば、不完全なものが完全なものの概念をつくり出したことになり、この原理に違反することになる。したがって神の概念はわれわれがつくり出したものではなくて、完全者である神がわれわれに植え付けたものと見なければならないのである。これは人間の性質を根拠として、神の証明を行うもので「人性論的証明」といわれる。

 しかしアンセルムスやデカルトのような証明は、フォイエルバッハ(Feuerbach, 18041872)の次のような反論には耐えられなかった。すなわち、神とは、完全を求める人間が、人間の本質を理想化し、対象化したものである。つまり神が存在するから神の概念がわれわれの中にあるのでなく、神の概念は人間がつくりあげたものである。要するに、「人間が神を造った」というのである。

 キリスト教のスコラ哲学を大成させたトマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 12251274)は、アンセルムスによる神の存在論的証明を捨てて、「宇宙論的証明」を行った。トマスは、自然界の運動の因果関係をさかのぼっていけば、最後には究極的な原因(第一原因)に到達すると言い、それを神であると見た。これはアリストテレスの「不動の動者」——みずからは何ら運動することなく、ただすべての運動の究極の目的となるもの——に由来するものである。しかし、これも無神論者、唯物論者を説得するのは難しかった。なぜなら因果関係の究極的原因としての第一原因が必ず神でなければならないという理由はないからである。物質の原因をいくらさかのぼっても物質以外のものであるはずはない、というのが無神論者や唯物論者の主張である。つまり彼らは宇宙の第一原因があったとしても、それは根源的エネルギーというような、物質的存在でしかないと主張するのである。

 それから「目的論的証明」というのがある。これは「宇宙は一定の合目的的な計画によって形成された一つの巨大な秩序体系である」と見て、その計画者がまさに神であるという立場、または「自然界の美と威厳から見て、最高の知恵をもった神が世界を創造したと言わざるをえない」という観点から神を証明する立場である。しかしこれも無神論や唯物論を克服するのは難しかった。なぜなら現代の科学的な無神論者たちは、宇宙の合目的性や自然界の美は自然界の法則の作用と自然選択によって説明できると信じているからである。

 さらに「道徳的証明」というのがある。これは日常生活で人間が従っている道徳の法則の源泉として、神の存在を認めるという立場である。または、カントの場合のように、道徳的要請を根拠として、すなわち道徳的生活における基準として、神の実在を要請するという立場である。良心を神の声とみる立場もこれに属する。しかしこのような主張も無神論者を納得させるのは難しかった。なぜなら彼らは、伝統的な道徳や倫理を封建社会において形成された規範、すなわち封建社会の支配階級がその階級的支配を維持、強化するために作ったもの、あるいは人間社会を維持するための一種の掟(おきて)にすぎないと見ているからである。

 このように、従来の神の存在証明は、説得力のないものとなってしまった。そして、そのような神の存在証明でもっては、近代に至って台頭してきた無神論の嵐に耐えることはできなかった。

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 次回は、「神なき思想の台頭」をお届けします。


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