ザ★Q&A【人生編】1

 今回は、「人生編」の第1回をお届けします。
 掲載内容は、『応答話法集』を参考に、編集部が再編集したものです。

Q. 信仰を持つことは恥ずかしいことでしょうか?

A. 宗教を信じること、信仰を持つことは恥ずかしいことではありません。むしろ宗教や信仰は、より良い人生を実現する上で、不可欠のものといえます。

 「信仰を持つことは恥ずかしい」という気持ちを分析してみると、信仰というものを、生活から遊離した特殊な事柄であると捉えていると見ることができます。

 いくつか例を挙げてみましょう。

*信仰とは、溺れた者がわらをもつかむように、困った時にすがるものだ。

*信仰するのは弱い人間か無知な者で、主体性のない人のすることだ。

*信仰は老人のすることで、単なる道楽か慰安に過ぎない。

 などといった考え方が、信仰を持つことは恥ずかしいという気持ちのどこかにあるからではないでしょうか。
 いずれも、信仰を現実の人生の活動とは無関係なものとして特別視することから来ているといってもいいでしょう。

 これらの考え方は信仰の本質を見誤っていると言えます。
 では、なぜこのような恥ずかしいという思いが生ずるのでしょうか。

 一つは、過去あるいは現在の世間一般の宗教、信仰の実態が、最初の例に挙げたような程度のものになってしまっているという点にあるかもしれません。

 もう一つは、宗教観それ自体のゆがみにも起因するかもしれません。
 すなわち、宗教、信仰は、純粋に精神的な領域だけの問題であり、現実生活とは無関係であるという偏見から来るものです。

 宗教の「宗」とは、「根本」という意味です。宗教とは本来、根本の教え、基礎となる教えであり、人生(生活)の指導原理を示したものなのです。

 実際、特定の宗教を信じていなくても、人は何らかの信念や思想・信条、人生観に基づいて生活しています。

 このように私たちは、さまざまな「信(信じるもの)」の中で生きています。
 それらの「信」を整理し、体系立てたものが宗教の理念であるといえるのです。

 人生を生きていく上において、確固たる理念を持つのと持たないのとでは、全く異なった結果を導くことになるでしょう。

 例えていえば、無信仰は未知の土地をなんの案内も地図もなしに進むようなものです。

 しっかりとした足取りで、確固たる歩みで目的地を目指して旅をするには、正確で信頼できる地図を持つべきでしょう。
 信仰とは、この信頼できる地図を意味するものといえるでしょう。

 単に、何の根拠もない感情的な判断だけで、信仰するのは恥ずかしいとか、宗教は嫌いだといって済まされる事柄ではないといえるでしょう。

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 次回は、6月13日の配信を予定しております。