2025.05.27 22:00
ほぼ5分で読める統一運動 52
南米の共産化と戦った文鮮明師夫妻とCAUSA運動
稲森 一郎
1991年12月をもって、巨大な赤色帝国主義の終焉(しゅうえん)の鐘が打ち鳴らされました。
ソ連の崩壊です。
ソ連帝国の終わりは、文鮮明(ムン・ソンミョン)師とレーガン米大統領の一体化によってもたらされた歴史的な快挙といえますが、実は、アメリカ自体が国際共産主義の脅威に絶えずさらされていた事実を直視しなければなりません。
1962年10月から11月にかけての「キューバ危機」、1979年のサンディニスタ民族解放戦線によるニカラグアの革命など、アメリカの裏庭と呼ばれる中南米で共産主義がはびこり、民主主義の本丸アメリカを狙うソ連の戦略があったからです。
1962年、キューバにソ連の核ミサイル基地が設置されている事実をつかんだ時のアメリカの驚きは大変なものでした。核戦争の一歩手前まで行ったのです。
1979年のサンディニスタ民族解放戦線によるニカラグアでの革命の成功は、アメリカを強く刺激しました。
反政府の民主主義勢力「コントラ」は、革命政府と戦っていましたが、レーガン政権がコントラを支援しようとしても、アメリカ議会はコントラ支援に反対しました。
しかし文師は、自身が創設した「ワシントン・タイムズ」を通じて、コントラ支援を訴えました。
文師がダンベリー刑務所に収監されていたある日、ニカラグアの事態を解決しなさいという、神からのメッセージがあったからです。
その結果、レーガン政権は当初願った援助額の2倍の額の援助が可能になりました。それによってニカラグアの内戦は1988年に停戦に至り、国連の監視下で大統領選挙が実施され、民主的な政権交代がなされたのです。
このように文鮮明師は、中南米に広がる共産主義運動と革命の阻止を目的に、中南米において「CAUSA」(カウサ/南北米統一連合)と呼ばれる運動を展開しました。
共産主義国家ニカラグアの反政府民主主義勢力コントラを支援したことで、「CAUSA」は広く知られることになります。
CAUSA運動は、中南米の共産主義勢力と対抗し、共産主義打倒を目指す活動、すなわち、勝共活動と同じ活動を展開していました。
1959年のキューバの共産化に続いて、1979年にニカラグアでも革命が起きたことにより、中南米は非常に危険な状況になっていました。
ニカラグアに続いてメキシコが共産化されれば、隣接するアメリカの南部諸州が危なくなり、アメリカ自体の共産革命という事態を招きかねません。
1980年10月、そのような時期にCAUSAが組織されたのです。中南米の共産化を阻止しなければ、アメリカが危うくなるのは明らかでした。
1980年代の10年間は、まさにアメリカとソ連の最終決戦期であったのです。この時、ダンベリー刑務所への収監という辛苦を味わいつつも、CAUSA運動(南北米版の勝共運動)によってアメリカを必死に助けたのが文鮮明・韓鶴子(ハン・ハクチャ)夫妻でした。
「南米の地位の高い人々に対し、カウサを中心として教育を終えました。一国で500人ずつすれば、その500人の中に、閣僚と州責任者など、あらゆる要人が入ります」(天一国経典『真の父母経』、896ページ)という計画の実施を語られた文師は、南米の首相や大統領、閣僚たちを教育し、南米をCAUSAによって一つにしたのです。
これによって、中南米の統合を目指す「AULA」(アウラ/中南米統合機構、1983年結成)創設への基盤を整えることができ、CAUSA運動は南北米の共産化を防備する大きな役割と責任を果たすことになったのです。
【参考文献】
『日はまた昇る 蘇る日本』(統一思想研究院編著 光言社刊、65~69ページ)