共産主義の新しいカタチ 64

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

「シーニュ」体系とは「文化の体系」
フェルディナン・ド・ソシュール(中)①

▲フェルディナン・ド・ソシュール(ウィキペディアより)

概念と音響イメージで構成されるコトバ
 前回のおさらいをすると、ソシュールは「コトバはモノの名前である」と考える「言語名称目録観」(一般的な言語観)ではなく、「シーニュ(記号)が結びつけているのは、概念と音響イメージである」と主張したと説明しました。

 この概念のことを「シニフィエ」(意味されるもの)、音響イメージを「シニフィアン」(意味するもの)として、コトバと呼ばれるものは、これらから構成される「複合的な単位」のことで、この複合的単位のことを「シーニュ」(記号)であるとしました。

 私たちが「イヌ」と言うとき、頭の中に浮かぶ「音響イメージ」を連想し、「イヌ」という概念が、例えば「イエ」でも「イカ」でも「イス」でも、「イケ」でも「イモ」でもない別のものとして区分されながら立ち現れてくるのだといいました。

人間が慣習的に言語習得する「差異」
 ここで、具体例を挙げてみましょう。ソフトバンクのスマートフォンなどの通信機器のCMに登場する「家族(白戸家)」では、なぜか白いイヌ(柴犬?)の姿をしているのが、子供たちに説教したりする「お父さん」ということになっています。この「お父さん」が、マスコット・キャラクター的存在で、販促プレミアグッズも「お父さんグッズ」となっています。

 しかし、このCMの背景にある物語や内容を知らない人にとっては、これはただの「しゃべるイヌ」にしか見えないはずです。このことを、ソシュール的に解釈すれば、このCMはある種の共通の「地盤」(ルール・解釈)を要求する「言語」のような働きをしていることになります。

 ソシュールは、「イヌ」が「イヌ」と呼ばれる必然性は全くないといいます。「イヌ」が「ネコ」と呼ばれたり「わんわん」と呼ばれたりするように、テレビCMを繰り返し見た幼児が、イヌを指して「おとーさん」と呼ぶ可能性もあるわけです。
 これをソシュールは「言語の恣意(しい)性」と呼びました。この「言語の恣意性」については後述します。

 このソフトバンクのCMの例が奇妙に見えるのは、「私たちの言語に対する慣れが関係していると思われる。言い換えれば、私たちは日頃、自分たちの言語の使用について、それほど無自覚に生活している」(『現代思想のパフォーマンス』)からです。

 私たちは、古来からヒトが家畜やペットとして飼い慣らしてきたオオカミの仲間であるその動物を、「イヌ」と呼びますが、通常は誰しも博物学・動物学の厳密な分類を踏まえて「イヌ」と認識しているわけではなく、歩き始めたばかりの幼児ですら、「イヌ」でなくとも「わんわん」として他の動物と容易に識別します。その識別方法は、学術的に絶対的な定義でもって「イヌ」という概念を、人間は生得的ないし後天的に採り入れるのではなく、ソシュールの考えによると、それは端的に言えば、他の動物との「違い」「差異」から識別するようになる、というわけです。ソシュールにおける「差異」概念が重要であるゆえんです。

文化的背景により言語対応が異なる
 さらに、「記号」としての言葉というものは、必ずしも一対一で対応しているわけではない、とソシュールは主張します。

 例えば、日本ではファッション用語で「羊皮」という場合、フランス語のmouton(ムートン)という言葉を使います。生きている家畜の「ヒツジ」は英語でsheep(シープ)ですが、これが食肉として食卓に上がると、lamb(ラム=子羊)やmutton(マトン=成羊)〔moutonに由来〕と呼び方が変わります。「ウシ」はcow(カウ=雌牛)またはbull(ブル=雄牛)がbeef(ビーフ)〔フランス語のboeufに由来〕となりますし、「ブタ」はpig(ピッグ)がpork(ポーク)〔フランス語のporcに由来〕となります。

 これは食肉用の語彙がフランス語・ラテン語から英語に入ってきたことを物語っていますが、英語の場合、最も身近な例外が「ニワトリ」、すなわちchicken(チキン)で、生きた家畜も、食肉も同じ呼称となっており、英国(あるいは英語圏)における食文化の原型というものが、垣間見えると言えるかもしれません。

 このような食文化についての英語の「使い分け」表現と同様な「分け方」というものが、例えば日本の「コメ文化」の言語表現にも当てはまります。

 それはつまり、こういうことです。日本では、水田で栽培されるものを「イネ」、秋に刈り入れて脱穀したものを「コメ」、さらにそれを炊いたものを「メシ」と呼び使い分けています。ところがコメを主食としない米国では、日本人がコメと呼ぶ植物は、田に生えていようが、脱穀なり精米なりしようが、調理しようが、「ライス(rice)」以外の呼称はありません。

 このことからだけ見ても、言葉は一対一で対応しているわけではないことがわかります(『現代思想のパフォーマンス』参照)。

▲大正時代の日本の田植え風景。日本では「コメ」「イネ」「メシ」とさまざまにコトバを使い分けるが英語では全て「rice」だけだ

 だからこそ、ソシュールは、「シーニュ(記号)の体系」としての「言語」(ラング)を、単なる言語表現手段の「道具」としたのではなく、まさに「文化の体系」というものを見ていた、と言えるのです。

 それは、ソシュール記号学の理論を20世紀後半に蘇(よみがえ)らせた、フランス構造主義哲学者のロラン・バルト(19151980)が、日本文化を『シーニュ(表徴)の帝国』としたユニークな文化論を著したことからも窺(うかが)えるのです。

(続く)

「思想新聞」2024年5月1日号より

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