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誤解されたイエスの福音 31

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。

野村健二・著

(光言社・刊『誤解されたイエスの福音』〈2011111日初版第1刷発行〉より)

第二章 イエスの本来の使命

七、「三位一体」の合理的理解

 さて、神とイエスとの関係を考えるに当たって、最後に解決しておかなければならないのは、パウロと同様、この両者、さらには聖霊までをも完全に同一視してしまう、「われらは唯一の神を三位において、三位を一体において礼拝する」(アタナシウス信条)という「三位一体」の教理でしょう。

 聖書自体にはこういう教えはありません。しかし、「あなたがたは行って、……父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」(マタイ2819)、「イエス・キリストに従い、……父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ」(ペテロⅠ12)、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」(コリントⅡ1313)、「もしあなたがたがわたし(イエス)を愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主(聖霊)を送って……」(ヨハネ141516)などと、いつも神(父)、イエス(子)、聖霊を一緒に扱うために、これは三つの別々のものではあるが、本質的には「一体」だとして、キリスト教の神学者たちがこういう言葉を使うようになったのだといいます(ヘンリー・シーセン『組織神学』聖書図書刊行会、222241頁)。

 しかし、このような扱い方をすれば、「位格を混同することなく、本質を分離することなく」(アタナシウス信条)という断り書きはあるものの、何か神が三人いるかのような印象を受けてしまいます。

 そのため、クルアーン(コーラン)では天使長ガブリエル(マリヤが聖霊によって身ごもると告知した天使)からの啓示だとして、ムハンマド(マホメット)に、「汝らの神は唯一なる神。そのほかに神は絶対にない」(第2章、「牝牛(めうし)」158など多数──岩波文庫)、「『アッラー(神)は御子をもち給う』などと言うものがある。ああ何というもったいないことだ。天と地の一切のものをもち給う御方ではないか」(第2章、「牝牛」110など)との警告が寄せられるようになります。


註:ただしクルアーンは人間について、「人間どもよ、汝らの主を畏(おそ)れまつれ。汝らをただひとりの者(神)から創り出し、この両人から無数の男と女とを(地上に)播(ま)き散らし給うたお方にましますぞ」(第4章、「女」1)と述べていますから、神が人間を神のように高貴な者として創り出し、創世記に記され、統一思想が強調しているように、神と人間が「男と女」という陽陰の相対的存在であることは否定されていないことを見いだします。また、「これマルヤム(マリヤ)。……(おまえは)神から発する御言葉(ロゴス)を(産みまつるであろう)。その名はメシヤ。マルヤムの子イーサー(イエス)」(第3章、「イムラーン一家」40)とありますから、イエスがパウロが言ったような万物の創造主だと見ることは否定されていても、ヨハネによる福音書11節の「神の言」(ロゴス)の実体であること、「メシヤ」であることは否定されていません。ただ、このメシヤの意味が、神の代身者ということではなく、預言者の一人で、その預言者のうちの最終・最高の者はイエスではなくムハンマド(マホメット)だとする点で、キリスト教(新約聖書)とは決定的に対立するものとなってくるわけです。

 このキリスト教の三位一体論、ならびにイスラームの唯一神論との長年にわたる不毛の対立とを、文鮮明(ムン・ソンミョン)師は、「父なる神、み子、み霊(たま)は、神様を中心としたアダムとエバをいうのです」(『天聖経』「真の家庭」428頁)というただの一言で、いとも簡単に解決してしまわれます。

 すなわち、創世記127節に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち……男と女とに創造された」とありますが、その「男と女」の始祖──アダムとエバの堕落を最終的に、神の創造目的どおりに完全な姿にまで復帰する役割を担って生まれたのが、新約聖書で言う「御子(みこ)」──イエス(本来のアダム)であり、その復帰を支えた、本来のエバ相当の「助け主」(ヨハネ1416)が「聖霊」──真理の御霊(みたま/本来のエバ)だと言われるのです。

 実際、この神とイエス、聖霊、三者の間の原理的関係を疑う余地なく明確に示す事件が、イエスの四十日復活の10日後、五旬節(ペンテコステ)に起こっています。すなわち、「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」(使徒214)という事件、「聖霊の降臨」という歴史的事実です。

 多くの者がイエスを信ずるようになったのは、過越(すぎこし)の祭のときに行われた最後の晩餐の直後に起こったイエスの十字架による刑死と復活だけでなく、五旬節のときのこの聖霊降臨によるものだと思われます。

 このように、イエスと聖霊とはぴったりと呼応したものとなっているのです。このことを文鮮明師の証言から解釈すれば、上述のごとく、イエスは妻帯して「真の父母」となり、アダムに代わる堕落していない神の真正の完成された子女、孫……を限りなく生み殖やさなければならない立場だったのに、洗礼ヨハネとマリヤの使命未完遂のために、妻帯して家庭を持つことができないままで亡くなられた。そこで、霊界において再臨の摂理──「養子」(霊的子女)としてのキリスト教徒を増殖すること──を精力的に進めていかれるためには、霊的にでも助け主としての妻が必要であった。そこで神がイエスに、刑死後、間髪を入れずに与えられた霊的妻こそが、まさに聖霊であると考えざるをえないのです。


註:実際、創世記218節には「また主なる神は言われた、『人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう』」とあります。聖霊を意味する「助け主」(ヨハネ1426)を連想させる言葉まで使って、人間を「独身」のままにしておいてはならず、妻を与えて「家庭」を持たせることが必要だと神は考えられて「アダムのあばら骨で女を造った」(創世記222)というのです。霊的妻では肉体を持つ子供を造ることは不可能でしょうが、強力な「助け手」となって霊的子女を生むことは可能なはずであり、実際そうなりました。なお、念のため付言すれば、イエスと聖霊は神と等価値ではあっても、神のように宇宙を造り出すような立場にあるものではなく、どちらも被造物であるというのが統一思想の見解です。

 このように捉えれば、三位一体の教理をめぐってのキリスト教とイスラームの鋭い対立は一挙に解消することでしょう。つまり、ムハンマドへの啓示が、マリヤへの聖霊によるイエス降臨を告知した天使長ガブリエルの媒介によるものだとすれば、神はガブリエルを通して、三位一体説の不毛性をキリスト教徒たちに悟らせようという親心を示されたのかもしれません。

 なお、ここで問題となる人間の価値について、文鮮明師は、神は人間に、自分と対等どころか、神の価値を上回るものとなってほしいという親心を持っておられるのだという驚くべき発言をしておられます。

 「父母の愛が永遠に持続するためには、その伝統を継承した誰かがいなければなりません。明らかに子女たちが(その)相続者です。……そのような伝統は、いつも父母が自分たちよりも子女が勝ることを熱望する」(『天聖経』「真の家庭」488頁)

 「神様は(親心として)愛の相対を自分より優れていることを願われる」。こういう「原則から見るとき、人間の価値は最大の価値です。(神の願いとしては)愛を中心として神様より高い価値があるということです」(『天聖経』「地上生活と霊界」567頁)。

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 次回は、「おわりに」をお届けします。


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