2025.05.16 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(208)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
24 真を求めよ
(1994年10月23日 札幌教会)
悲しみを迎えて暮らされるお父様
堕落性の清算は、苦痛と悲しみによって清算されるという結論になります。親が子供に接する場合も、たとえ正しいことでも、血気を起こして言うと、子供はもっとかたくなになります。しかし、親が泣きながら正しい話をすると、子供たちも自分が悪かったということを悟ることができるのです。親が泣きながら心配する生活をしていけば、子供に正しい姿勢をもたせることができます。神様は、今まで悲しみに満ちた、恨(ハン)の神様でした。お父様もその一生は、悲しみに満ちた方です。心の琴線に触れれば、一瞬間に痛哭(つうこく)せざるを得ない神様であり、お父様であられるのです。
お父様はいつも悲しみを抑えて暮らされる方です。相手の相対基準に立たなければならないというのが親の立場です。親は自分の家庭のために生き、自分の本性をそのまま表すことができません。堕落した親でも、自分の家庭に戻れば、自分のままの姿勢をもつことができません。子供がいれば、子供を主体視しなくてはならないのが親です。自分の心配や自分の心情を抑えておかなくてはなりません。自分の家庭に対して自分のありのままの姿を表せば、家庭の雰囲気はめちゃくちゃになってしまうのです。
ですから、子供や家庭の雰囲気のために自分を抑えるのです。同様に、お父様は神様の恨や悲しみをいっぱいもっておられながらも、そのまま表すことができないのです。お父様は、「私が心をそのまま表に表せば、一人もお父様の前に座っていることはできない」とおっしゃいました。ですから、お父様はいつも食口(シック)のために、神様の恨や悲しみを隠し、いつも抑えて暮らされるのです。
自分の責任も、天の願いも主体者のことも考えないで、自分勝手に暮らしたがるのが肉心です。肉心は、主体者のための肉心ではないのです。自分のための肉心ですから、勝手に笑ったり、勝手に自分の楽な立場をとろうとしませんか? しかし、本性に戻って考えてみると、主体者と自分との関係は、主体者の願いを中心とした自分となるのです。それを考えると深刻です。特に皆さんは、メシヤの願いを聞いており、本性ではそれを確認しています。
しかし、自分を反省して本性に問うてみた場合、それに対して勇気をもって答えることのできない自分なのです。自分は主体者の前に堂々たる存在であるのかといえば、顔を上げることもできない自分なのです。だれ一人として、自分の本性の願いの前に、堂々たる生活を送っている自分ではありません。本性の基準は高いのです。
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次回は、「真は悲しみをもって求める」をお届けします。