2025.05.09 17:00
心情開拓
心霊を育てる生活原則(207)
原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。
李耀翰・著
24 真を求めよ
(1994年10月23日 札幌教会)
イエス様の悲しみ
またイスラエル民族が、罪を犯した一人の女性をイエス様の前に連れてきて、「モーセの掟(おきて)に従って石で殺すのですが、あなたが神様の息子なら、どういうふうに判断しますか」とイエス様に聞いた時、イエス様はあまりにも悲しくて、あまりにも悔しくて、その質問に顔を上げられなくて、頭を下げて、手で地面に何か書きます。そして、その姿勢のままでじっとしておられました。イエス様はつらい心情を抑えるために黙っておられたのに、今、イエス様の心情を知らずに聖書を読むと、なぜその時イエス様は黙っておられたのかも分からないのです。
そうしてイエス様は、神様の立場に立たれながら、あまりにも悲しみに陥ったその瞬間をこらえて、悲しい心情を抑えてこうお話しになったのです。「罪なき者が、石をとって殺しなさい」。この言葉がイエス様の口から出た時に、それを聞いた者たちは、どれほどびっくりしたことでしょうか。イエス様をテストして、大勢の前でイエス様に恥をかかせようとしてきた大衆の心は、その一言でびっくりしてしまって、それで恐ろしくなって石を捨てて帰ったのです。
聖書には書かれていませんが、あんなにもイエス様を讒訴(ざんそ)する心、イエス様を無視する心で来た大衆の心を、何の力があのように一遍に屈服させたのでしょうか。悲しみに満ちたイエス様の、それを抑えて話した力が、大衆の心を、完全に恥ずかしい思いにさせて、そこにいられなくさせたのです。
マタイ福音書の第23章の37節には、イエス様の次のような言葉があります。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」。これはどれほどの悲しみをもって話された言葉であろうかと、その姿勢、その心情が、予想できないほどの言葉です。
このようなことから、けさは、真というものがどこで生まれるのか、それは、悲しみが生まれたところに真の姿勢が求められるのだという話をするつもりです。悲しみと苦痛の同伴者になって、真の姿勢が求められるのです。そしてそれは、神様と真の御父母様と共に求めていくのです。悲しみを通じないと堕落性は清算できません。
先ほどお話しした、イエス様が悲しみに満ちて語られた「罪のない者は石で殺せ」という言葉。イエス様がそう語られた時、イエス様を試そうとした人々の心が一遍に清算されました。そのように、自分たちが罪人だということを悟ったのを見ると、人々は、イエス様の悲しみの前で、真なるものになったのです。真に近い本性の影響で、自分たちが罪人であると思い、石を捨てて戻っていったのです。
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次回は、「悲しみを迎えて暮らされるお父様」をお届けします。