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内村鑑三と咸錫憲 23
文鮮明総裁と咸錫憲と五山学校

魚谷 俊輔

 韓民族選民大叙事詩修練会において、内村鑑三が近代日本の偉大なキリスト教福音主義者として紹介され、その思想が弟子である咸錫憲(ハム・ソクホン)に引き継がれていったと説明された。
 咸錫憲は文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁が若き日に通われた五山学校で教師を務めた人物だ。そこで内村鑑三から咸錫憲に至る思想の流れを追いながらシリーズで解説したい。

 前回から、文鮮明総裁が内村鑑三、五山学校、咸錫憲をどのように評価していたのかを探求し始めた。
 今回は、五山学校について深掘りしたい。

 文鮮明総裁は201283日にソウル聖母病院に入院された。その後、清心国際病院に移動し、93日に聖和された。

 文総裁は容体が悪化する前日の82日にソウルの五山高等学校を訪問しておられる。すなわち、文総裁が訪問された最後の外部機関がソウルの五山学校だったということだ。

 教会で学ぶ文総裁の「生涯路程」では、文総裁が定州に住んでいらっしゃった頃に通われた学校が五山学校であると教えられる。
 その五山学校が、現在ソウルにある理由と経緯は以下のとおりである。

 190712月、独立運動家の李昇薫(イ・スンフン)先生が平安北道定州郡葛山面五山に中等教育機関「五山学校」を設立し、同校が植民地期における民族教育の拠点となる。

 19458月の解放後は、共産主義勢力から逃れて南に移る。
 19534月、釜山市東大新洞に「五山高等学校」として再建。同年、ソウル市元曉路に仮校舎を建て移転。
 19564月、ソウル特別市龍山区普光洞に移転し、現在に至る。

 文鮮明総裁の大叔父である文潤國(ムン・ユングㇰ)先生も、民族意識の高揚と人材育成を目的とする五山学校の設立を支援したと伝えられる。

 咸錫憲は1921年に五山学校に編入し、1923年に卒業している。
 その後に東京高等師範学校へ進んで1924年に内村鑑三と出会っている。そして1928年に帰国し、母校である五山学校の教師になった。

 五山学校は文潤國先生がその設立に関わり、キリスト教に基づく民族教育を行っていたことから、「再臨摂理の揺籃(ようらん)」のような場所であったと考えられる。

 そこで学び、内村鑑三からキリスト教の薫陶を受け、さらにそこで朝鮮史を教えた咸錫憲には、何らかの摂理的な使命があったと考えるのが自然ではないだろうか。

 咸錫憲が亡くなったのは198924日である。その頃には文鮮明総裁は既に韓国では有名な宗教指導者になっており、咸錫憲も著名な思想家として名声を得ていた。

 咸錫憲は高校3年生の時に、独立運動に身を投じて2年ほど学業を中断したほど愛国心にあふれた青年だった。

 李承晩(イ・スンマン)時代には民主化運動の先頭に立ったために何度も投獄されているし、咸錫憲が1970年に創刊した雑誌『シアレ・ソリ』は、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の言論統廃合により1980年に強制廃刊されている。

 咸錫憲の思想は統一原理にかなり近いものではあったが、彼もまた強烈な主体性と反骨精神を持つ人物であったため、「両雄並び立たず」の状態となり、文総裁を受け入れることができなかったのではないかと考えられる。