コラム・週刊Blessed Life 44
善性稟と悪性稟の人生二筋の道

新海 一朗(コラムニスト)

 人間として生まれ、人間として生きる。これが、75億人類の人の道であることは当然ですが、物質的な衣食住に恵まれて生きる者もあれば、そうでない者もあり、精神的な真善美を追求するゆとりを持つ者もあれば、そうでない者もあるというように、人の人生はさまざまです。
 そのような裕福さとか余裕とかのあるなしにかかわらず、もっと根本的なところで、生き方を規定している人間本性の要素があります。それは性稟(せいひん)の善し悪し、すなわち、性格、人柄、道徳性に関わる問題と言えましょう。

 聖書を見ますと、対照的な二つの性稟について述べたところがあります。
 一つは、「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」(ガラテヤ人への手紙 第5章22~23節)という聖句で、御霊(聖霊)の働きによる善性稟が九つ挙げてあります。
 もう一つは、「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像崇拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである」(ガラテヤ人への手紙 第5章19~21節)という聖句ですが、倫理的逸脱、人間関係を破壊する悪性稟などが列挙してあります。

 要約すれば、一つは、愛、利他、共感、誠実、責任などの遂行が善の生き方であり、他方は、憎しみ、利己、ねたみ、不誠実、無責任などによって悪の生き方に陥るという指摘になっています。
 この人生の二筋道において、全人類が、善の生き方よりは悪の生き方に傾斜しやすいという事実は否定できません。善性稟(創造本性)よりも悪性稟(堕落性)が全人類に絡みついているからです。もし理想世界を目指すと言うなら、この厄介な、人の心に絡みついている堕落性を取り除く必要があります。

 優れた経営者であるという評判を簡単に裏切ってしまうような悪性稟の数々を世に現した日産のトップリーダーの不祥事は、堕落性の怖さを遺憾なく示しています。人生の真の勝利者となるためには、堕落性の克服の問題が大きく関わってくるのだと自覚しなければなりません。