コラム・週刊Blessed Life 43
諏訪湖周辺は太古からの神域である

新海 一朗(コラムニスト)

 所用のため、11月10日、11日の二日間、諏訪、松本に出掛けました。
 あずさ7号で山梨から長野へ抜ける車窓から左右の景色を眺めると、山々は美しい紅葉で彩られていました。特に、秋の深まった11月の山梨、長野の景色は、文句なく、清澄の山肌を覆う赤、黄、橙、茶色の紅葉真っ盛りの美観に変わり、旅行者の目は釘付けになります。

写真はイメージです

 諏訪大社は諏訪湖周辺に4カ所の境内を持っていますが、上社と下社に分かれ、上社には本宮と前社、下社には春宮と秋宮というように四社があります。諏訪大社は建御名方神(たけみなかたのかみ)を祭神としていて、出雲との関係が深い神社であるとされています。
 建御名方神は大国主神の次男で、大国主神に建御雷神(たけみかづちのかみ)が国譲りをせまった時、建御名方神は国譲りに反対し、戦いを挑みました。負けて諏訪に移り住んだのが建御名方神であるといわれています。出雲と諏訪がしっかりとつながっているわけです。

 諏訪湖周辺には縄文時代から多くの人々が住んでいました。近くに八ヶ岳がそびえており、その広々とした山麓には豊かな木の実と動物たちが太古の人々を養っていたことは確実で、諏訪湖の魚介類もまた大切な食料であったと思われます。すなわち、諏訪湖周辺(諏訪、茅野、小淵沢、岡谷)は大昔の縄文時代、巨大な集落を形成していたことは間違いありません。茅野市には縄文時代の遺跡が237カ所もあり、八ヶ岳、霧ヶ峰の麓が食料の宝庫であったことを裏付けています。

 もう一つ、旧約聖書のアブラハムのイサク献祭をそのまま再現したかのようなエピソードをもつ場所、すなわち、モリヤ山(守屋山)が諏訪にはあるということです。
 諏訪大社で古来、行われてきた「御頭祭(おんとうさい)」では、主役は15歳未満の少年であり、その少年を「御贄柱(おにえばしら)」に縛り付け、少年をいけにえとしますが、少年は解き放たれて生き延びることができます。
 この「御頭祭」は、アブラハムのイサク献祭そのものです。こういう祭りが諏訪に残っていること自体が、おそらく、太古、イサク献祭の物語を知っているイスラエルの人々が諏訪に来て定住した証しでしょう。縄文人と出雲人、そしてユダヤ人の出会いが諏訪湖周辺の独特の宗教文化をつくり上げたと見てよいかもしれません。