信仰と「哲学」13
神を「知る」ということ~「神と被造世界」は心と体の関係

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 『原理講論』の中に、「神と被造世界とは、性相と形状との関係と同じく、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横など、二性性相の相対的な関係をもっているのである」(第一章 創造原理、第一節 神の二性性相と被造世界)と記されています。
 特に「性相と形状との関係と同じく」との文言が重要です。

 文鮮明師の教えの中に、「人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心はどこにあるのでしょうか。頭にあるのでしょうか、心臓の中にあるのでしょうか。心は、私の体の中のどこにでもあります。私の体の中にない所はありません。同じように神様がいらっしゃるならば、神様もこの世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでもいらっしゃいます」とあります。(「真の神様」より)

 私たちは、「第一原因」「創造主」「天の父」などの言葉で表される神様を思う時、どうしても関わっている現実世界の様相で考えてしまいます。造った存在と造られた存在は別のもの、父と子は別の個体と捉えてしまうのです。しかし、『原理講論』での説明や文師の教えでは、神と被造世界との関係を、切り離すことのできない心と体の関係であると明言しているのです。

 聖書では、神様の「在って在る者」(出エジプト記 第3章14節)との表現を記しています。モーセに現れた神の「ことば」です。第一原因であり、全ての存在を有らしめている存在との意味ですが、それは人間においては、体に対する心も、そのような位置にあるのです。

 私たちはよく、「自分にとって神様は遠い」とか、「離れてしまった」などと表現することがあります。しかしそれは「間違った」考え方なのです。心と体を切り離すことや、位置的に遠ざけることなどできないように、神様はどのような状況であろうと私と共にあるのであり、この被造世界と共にあるのです。

 さらに、西欧や中東の神は「創造主」であり、「唯一神」であるのに対して、日本の神は「八百万の神」であるとして、神観の違いを説明することがあります。日本は全てのもの、例えば山や木などの森羅万象に神の発現を認め敬うという神観を持ってきました。

 両者の違いが強調され、どちらが優れているのかを比較する場合がありますが、神と被造世界との関係が心と体の関係であれば、心は創造する立場であり、唯一の立場であり、体のあらゆる所に「ある」ことは可能なのです。

 「神様もこの世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでも」いらっしゃるのです。(続く)