信仰と「哲学」12
神を「知る」ということ~悟性、理性段階から始める

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 これから、「直感で知ること」について、理解を深めていきたいと思います。

 その前に『原理講論』では、「無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか」と問い、「それは、被造世界を観察することによって、知ることができる」と述べています。

 さらに聖書を引用して、パウロは「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ人への手紙 第1章20節)と記録していると述べています。

 まず神の「全体」における神性の「位置」を知る必要があります。それは、本質そのものではなく、その現れ、という位置付けとなります。
 ですから、この部分は「無形なる神をいかにして知ることができるか」ではなく、「無形なる神の神性を」いかにして知ることができるか、を考えてみようと導いているのです。

 ここで私たちは、悟性や理性を働かせながら考えを深めていくことになります。

 道元禅師の「自己をはこびて万法(まんぼう)を修証(しゅしょう)する」(『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』の第三巻)段階の知的作業です。いまだ「迷い」から抜け出せない、心の中に「ストン」と落ちない段階です。

 被造世界を観察し、被造物に潜む共通の事実を把握することによって得られた内容は、全てのものが陽性と陰性、性相(内性)と形状(外形)の相対的関係をもって存在しているということでした。

 よって本体としての神ご自身のうちにも陽性と陰性の要素があり、性相と形状の要素がありながらそれらが一体となっていると理解することができます。

 神の陽性を本陽性、「男性」と言い、神の陰性を本陰性、「女性」と言います。さらに神の性相を本性相、神の形状を本形状と言い、一体となって、神は本体的人格性を持つ「存在」と理解することができるのです。

 これらを総合すれば、神は人間を含む全被造世界の「父母」であると表現することができます。しかし、この結論は、あくまでも悟性、理性段階の理解を踏まえたものであり、迷いの世界から抜け出したものではありません。(続く)