夫婦愛を育む 36
つい自分を責めがちになりませんか?

ナビゲーター:橘 幸世

 不登校を扱った番組で、ある父娘が紹介されていました。

 父親は娘を愛するが故に、厳しく育てます。娘は父の期待に応えようと学業に励みます。学校でいじめに遭っても、そんな自分は父の期待像から外れているので黙っています。やがて娘は限界に達し、もう耐えられないと父親に打ち明けます。

 「学校には行きたくない。(お父さんの願うような娘でなくて)こんな私でごめんなさい」。

 娘のただならぬ様子に、父は「分かった。行かなくていいよ」と全面的に受け止めます。父娘関係は新しい次元に入り、フリースクールに通うようになった娘に笑顔が戻ります。「以前は、お父さんの顔が怪物のように怖く見えた。今はお父さんが愛してくれていることが分かる」。

 この言葉を聞いて、「ああ、父親はずっと娘を愛していたんだけれど、それが伝わらなかったんだ。“かくあるべき”“期待”という壁にブロックされて愛が見えなかったんだ」と思いました。

 神様が神霊と真理で私たち人間を導かれるように、親も愛と規範をもって子を育てます。愛と規範、どちらが欠けても、どちらに偏り過ぎても支障が出ます。愛していながらも、「きちんと育てなければ」という思いが前面に出ると、上記の父娘のように、愛が伝わりづらくなってしまうかもしれません。

写真はイメージです

 信仰者の家庭に生まれた子供は、ややもすると自己肯定感が低くなりがちといわれます。何か悪い事が起こると、自分のせいではないかと不安になります。厳格な戒律が強調される信仰ほど、その傾向は強いかもしれません。

 素朴な生活を今なお堅持するキリスト教一派アーミッシュの少女を主人公とした物語で、偶然彼女と言葉を交わした精神科医が、「あの共同体の子に共通して見られるように、彼女も自己肯定感が低い」と言ったのが印象的でした。

 アルジェリア出身の友人が「イスラム教の戒律のもとで育った自分は、(かつて)道に何か落ちているのを見ても、自分が悪いことをしたのかと不安になった」と話してくれたことがあります。

 神様も親も、愛してくれている、許してくれる、と頭では分かっていても、自分に非があるのではと考える癖が付いていると、誰が責めなくても、勝手に自分が責めます。天の前にきちんと清算したにもかかわらず、過去の負債をずっと引きずっている人もいます。愛と許しを受け取り切れないと、心に重しがのっているようではないでしょうか。

 復帰途上、成長途上の私たちは不足な点があって当然です。子供の成長を見守る親は、子供が(できないことで心配する以上に)できるようになったことを見て喜びます。
 自分を責めがちな人は、そんな親(神様)の愛情をもっと信じ、受け止めて、良い意味で楽になりましょう。