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ダーウィニズムを超えて 51

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
 そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。

統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著

(光言社・刊『ダーウィニズムを超えて科学の統一をめざして』〈2018520日初版発行〉より)

五章 心と脳に関する新しい見解

(四)認識はいかになされるか

(2)原型の存在
 カントのように、人間主体と対象の間に必然的な関係性がないとすれば十分な認識はできない。またマルクス主義のように、主体と対象が対立する関係でも十分な認識はできない。完全な認識がなされるためには、人間主体と対象の関係は必然的であり、相似的、相対的な関係になくてはならない。すなわち、主体と対象の関係において、構造とか、要素とか、性質が相似的であり、共通性がなければならないのである。言葉が違えば、われわれはコミュニケーションができないのと同様である。

 これは人間主体が対象を認識するとき、対象に対応する観念をもっていなくてはならないということを意味する。そして人間主体の心の中にある、対象に対する観念または映像のことを「原型」と呼ぶ。

 原型なるものが、人間主体の中に存在していると考えたのは、古くはソクラテスであった。彼は「すべての観念は脳の中にあらかじめ存在している。そうでなければ観念が外から入ってきたときに、私たちはそれを認識することができないであろう」と説いた。プラトンのイデアも原型に相当するものである。たとえば美のイデアを通して、人間は客観世界の美しいものを知覚し、それをまさしく美しいものとして感じることができるという。

 ルネサンス時代の哲学者ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus, 140164)は、神は自己の精神の内にある諸原型を通じて世界を創造したが、それと似て、人間は自らの精神の内にある諸原型を通じて、この世界を認識していると考えた。彼らの見解は、認識主体の中に原型があるという統一思想の主張と一致するものである。

 デカルト以来の大陸合理論は、人間は生まれながらにして生得観念をもっており、それに基づきながら、理性の働きによって認識を行っていると考えた。しかし合理論は、客観世界を十分に観察しなくても、理性と生得観念によって認識をなしうると考えるようになり、独断論に陥ってしまった。

 統一思想においては、原型は客観世界に相似したものであり、対応するものである。神の創造において、人間は神に似せて創造され、万物世界は人間に似せて創造されたからである。言い換えれば、人間は小宇宙であり、万物の総合実体相である。したがって、われわれの心の中には世界に対応する観念や映像が原型として存在しているのである。現代科学の立場から、原型を担うものが脳の中に存在することが明らかにされつつある。例えば、言語学者のビッカートン(Derek Bickerton)は次のように述べている。

 われわれヒトの成人の場合、ある事物や出来事を知覚すると、まずそれを「強盗」・「香水スプレー」・「パラノイア」のような言語表現として、すでに存在する概念に写像してみて反応を示すことは、かなり明らかである。換言すると、少なくともわれわれヒトという種にとって、すべてのものが中に入った現実の地図に相当するものをわれわれは持っていて、現実世界でのわれわれの瞬間・瞬間の活動は、無意識ではあるが、かなり無条件にかつ完全に、それに依存しているのである。この地図によって、われわれは、環境の変動にすばやく順応したり、適切な反応を準備しておいたりできるのである(*21)。(ゴシックは引用者)


*21 デレク・ビッカートン、筧寿雄訳『ことばの進化論』勁草書房、1998年、31頁。

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 次回は、「認識はいかになされるか③」をお届けします。


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