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ダーウィニズムを超えて 50

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
 そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。

統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著

(光言社・刊『ダーウィニズムを超えて科学の統一をめざして』〈2018520日初版発行〉より)

五章 心と脳に関する新しい見解

(四)認識はいかになされるか

1)従来の認識論の問題点
 認識とは何であり、いかにしてなされるのであろうか。人間は衣食住の生活を豊かにし、真善美の価値を追求するために、世界を観察し、理解し、世界に関する知識を得ようとする。そのように、理解し、知識を得ることが、すなわち認識なのである。

 認識は、認識する主体としての人間と、認識される対象との間においてなされる。対象は万物、作品、そして個人、家庭、社会、国家、世界等である。そのとき主体と対象との間で、どちらに認識の起源があるのかというのが、認識の起源の問題である。

 外界の対象から来る感性的内容を感覚器官が受けとめることによって、すなわち感覚によって認識はなされるというのが経験論である。人間の心は生まれた時は白紙の状態であり、経験によって、その白紙の心に外界の対象が映ることによって、観念が形成されることが認識であるという。すなわち認識は、鏡が外の景色を映すようにしてなされるというのである。経験論は1718世紀に、イギリスのロック、バークリ、ヒューム等によって展開された。

 それに対して、感覚によっては正しい認識は不可能であり、人間の理性の働きと、人間が生まれながらもっている生得(しょうとく)観念に認識の起源があると主張したのが、デカルト、スピノザ、ライプニッツ等によって展開された大陸の合理論であった。

 そのように、対象に認識の起源を置く経験論と、人間主体に起源を置く理性論の二つの主張が対立したが、やがて両者共に極端な主張となってしまった。すなわち、英国の経験論は経験的事実のみを確実なものとしたために、形而上学を否定するのみならず、自然科学の確実性までも疑うようになり、懐疑論に陥ってしまった。また大陸の合理論は、経験的事実を軽視して、理性によって一切を認識しうると考えるようになり、独断論に陥ったのである。

 この二つの立場を総合して、新しい見解を立てたのがカントであった。カントによれば、対象から来る感性的内容は断片的なものであって、主体のもっている先天的な認識の形式によって秩序づけられ、構成されることによって認識は成立するというのである。したがって、認識主体によって構成された表象は、対象それ自体(物自体)ではなく、対象それ自体は決して認識できないという不可知論に陥った。

 カントの立場では、対象それ自体を認識することはできないし、変化発展する現象を説明することはできなかった。そのように不可知論に陥り、変化発展する能力を喪失したカントの認識論を批判克服しようとしたのが、唯物弁証法に基づいたマルクス主義認識論であった。

 客観的対象と認識主体を統一的に扱うという点では、マルクス主義もカントと同じである。しかしカントのように、対象と独立して、主体が認識の形式をもっているというのではなく、マルクス主義は客観的実在の存在形式が、そのまま主体の意識に反映したものが認識の形式であるとした。

 マルクス主義によれば、認識は次のようになされる。まず客観的実在が意識に反映するのが感性的認識である。次に、人間主体が判断し、推理するのが理性的認識である。その次は実践によって検証していく段階である。そうして認識と実践の回路を絶えず繰り返していくことによって、絶対的真理に限りなく近づいていくという。かくしてカントの不可知論を退けたのである。

 ところがマルクス主義において、人間主体と対象の関係は対立や闘争の関係である。しかし、対立や闘争の関係のもとで、いかにしてわれわれは対象を理解し、認識することができるのであろうか。さらに、外界が意識に反映することによって認識はなされるといっても、それが単に物理的過程であれば、認識は成立しえない。ガラスからできている鏡は対象を映しても、対象を認識できないのと同様だからである。

 認識することのできる意識は、対象に関心をもち、反映した像を判別することのできるものでなくてはならない。しかるに物質である脳の産物とされる意識がいかにして対象に関心をもち、対象を判別するのであろうか。またその意識は、いかにして抽象、判断、推理などの論理的な認識または思考を行いうるのであろうか。さらに、いかにして対象に対する実践を指令しうるのであろうか。そのような問題に対して、唯物論の立場からは答えることはできない。これらの従来の認識論の難点を解決するために、統一思想に基づいた認識論が提示される。以下、いくつかの項目に分けて統一認識論の立場を説明する。

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 次回は、「認識はいかになされるか②」をお届けします。


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