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心情開拓
心霊を育てる生活原則(148)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

11 肯定的受肉
(1976年912日 東京教会)

▲李耀翰先生

神の心情を相続しよう

 ですから、最後に祝福家庭が問題です。特に日本の祝福家庭を心配するのです。韓国の普通の家庭では、自分の妻を「妻」と言わないで、相当の尊敬語を使っているのです。運命を担当してきた女性、血統を守る女性と見るので、自分の父母の前でも、二人でいる時にも、相当尊敬語を使うのが普通です。自分の妻を妻と簡単に考えない基準があるのですが、日本は従来、妻に対して「おい、君」、「お前」、「こいつ」、「何々ちゃん」と、そういう癖があるので、従来のその癖で、相対者に対しているのではないかと心配しています。生まれ変わっていない、その目が女性と見てしまい、自分の妻と見てしまうのです。

 縦的な価値を知らないのです。だれによって会った人か、自分たち同士で会った人か、だれの願いによって夫婦になったか、縦的関係を知らずに、「おい、洗濯しろ」、「御飯を持ってこい」と、世間の夫婦のように接した場合、大きな問題です。目的地において、失敗してしまうのです。一番難しいのです。日本の男性は、そういうところで悩むかもしれません。

 「『原理』はそうだけれども、しかし、訳が分からない」と、そこで自分を肯定してしまうのです。そうすると、どうなるでしょう。今までの習慣を自分で認めたなら、どうなるでしょう。どれほど自分が否定されて、み言(ことば)によって変えられて、み言を受肉してきたかによって、夫婦も実っていくのです。だから、行く過程が非常に問題です。

 特に最近は、心情復活時代ですから、蕩減(とうげん)時代に入教した兄弟はもちろん、転換しなければならないし、新しく来た人は、蕩減思想よりも、侍る思想、人間を神のごとく信じる生活を教えなければなりません。これからは、新しく来た人でも、その人を神の子女として、その人も先に来た人をアベルとして侍る生活であれば、堕落性とか、罪とか、不信とか、そのようなことを言わなくてもいいのです。

 主体者を決めたから、罪と言わなくてもいいのです。私たちはすぐに、我知らずに、人間は堕落性があるからと、こう思いがちですが、主体者に主管されているならば、堕落性はないのです。

 堕落性とは、自分を中心にした場合をいうのです。自分を否定した以上は、堕落性はないのです。どんな考えでも、主体者によって決定したからです。そして、主体者が決定したものを、自分が生命視するのです。それが信仰者としての自分なのです。主体者が決定したもの、その中心を中心としての自分は、絶対です。そこには堕落性がないのです。

 堕落性とは、その立場から離れることです。「堕落性があるからなあ」と言って、自分を肯定してしまうのです。否定すべき自分なのに。だから、み言をどれほど私たちは受肉して、成長しているかを、本当に深刻に自分を検討する必要があります。兄弟関係を土台として、毎日勝利の生活をすれば、神に絶対主管されるのです。そういう意味で、肯定的受肉をしようと、主体者の立場で、情を、心情を相続しようという結論で、私の話を終わろうと思います。ありがとうございます。

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 次回は、「大転換の時」をお届けします。


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